前世の記憶〔刑場〕

気功の先生はまだ「わかる」ようになって日が浅く、ところどころ曖昧な部分もあるということです。
わたしはすべて鵜呑みにしているわけではないのですが、自分が感じていたことと一致したことは、ああやっぱり、と腑に落ちるので素直に信じます。

わたしが生きていた前世は明治だったそうですが、おそらくは明治のごく初期で、江戸の風潮をまだ払拭できていない世の中だっただろうと理解しています。

もうひとつ、きっとこうだっただろうと感じていたことを、確認できました。

          ++++++++++++++++++

『銀の靴』の中には裁判のシーンを書いた記事がいくつかあります。
〔おびただしい罪状〕
http://kyara-hime.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_37ba.html
〔法廷の真ん中〕
http://kyara-hime.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d0b8.html
〔絶望の奈落〕
http://kyara-hime.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_427d.html

などが初公判に関する記事です。
その〔絶望の奈落〕に次のような一文があります。

          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

判決言い渡しの日程が通達され、裁判官は去りました。
彼は手錠をされ、再び腰縄で縛られて、法廷を出てゆきました。
振り返ってわたしを見ました。
この光景を、遠い昔、経験したことがある…。
鈴が森か、小塚原かで…。


          
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

鈴が森・小塚原とは、江戸の二大刑場です。
鈴が森は現在の南大井、東海道沿いにあり、小塚原は現在の南千住、日光街道沿いにありました。
街道沿いにあったのは、見せしめのためだったと言われています。
処刑は一般の人たちが自由に見に行くことが出来ました。
明治初期まで使用されていたそうです。

          
++++++++++++++++++

恋人が手錠・腰縄をされ、刑務官に前後を挟まれて法廷を出て行くとき…

振り返ってわたしを見たその光景にわたしはデ・ジャ・ヴを感じました。
これを遠い昔に経験したことがある。
荒涼とした刑場に引き立てられて来た、処刑される彼を、わたしは見ていた、と思ったのです。

でも一瞬のフラッシュバックに過ぎなく、自分の中に信憑性も持てなかったので、記事にはサラッと書くに留めました。
そして、このフラッシュバックが真実であったかを、先生に見てもらいました。

『Gさんは、処刑されませんでしたか?』
しばらくして返事が来ました。


『彼は殺人の罪で、小塚原で死罪になりました。』

          
++++++++++++++++++

小塚原のほうでした。
いえ…答えを聞く前から、小塚原だと思っていました。
拘置所からの帰り、日比谷線と常磐線の隙間の三角の狭い土地に、不似合いな大きなお地蔵様があるのをわたしは何度も見ていました。
そこに、行きたいような行きたくないような、知りたいような知りたくないようなもどかしい気持ちでわたしは大きなお地蔵様の丸い頭をいつも見下ろしていたのです。

今調べたら、それが小塚原の刑場跡でした。
彼はそこで磔になったのです。
おそらくわたしのお客だったのでしょう。わたしは処刑を見届けに行ったのです。
カラスが鳴き、風が吹きぬける刑場に、荒縄で縛られて引っ立てられてきた彼の姿が、法廷での彼に重なって見えたのでした。

          
++++++++++++++++++

わたしは同じ轍を踏んでしまっていました。
現世でも彼を選んでしまったのです。
こんな運命が待っているとも知らず、何故惹かれたのかわからないままに。

彼もカルマ(業)を昇華できずに現世に生まれ変わって来た人でした。
人様のお金をお預かりして、我慢できずにその信頼を裏切り横領し使い果たしてしまいました。
来世で、彼はもう一度試されるでしょう。
それはわたしも同じことです。

          
++++++++++++++++++

前世、生まれ変わり、魂の存在、などはあくまでも一つの考え方にしかすぎません。
共感できない方、反発を覚える方、いらっしゃるとは思います。
けれど、わたしは一つの思想として信じていた上に、自らに起きたこういった事柄を通して、人とは縁で繋がっているものだと強く感じます。意味があって出会うものなのだと実感します。

来世で、また出会うでしょう。
そのとき、わたしはどうするのか。
思い出せるのかどうか。

少し怖くて、ほんの少し楽しみです。


                                         pencil伽羅moon3           

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わたしも傷ついていた。

P1080604 今日の東京は、すっきりと晴れ上がった青空でしたね。
風が冷たくて寒かったですが、本当に綺麗な空でした。


今日は本編から外れます************

金曜・土曜とソラナックスを飲んでいます。
ずいぶん良くなったと思ったけれど、それなりに、一生付き合っていく病気なのかもしれないと今になって実感しています。
ここのところなんだか、治っちゃいそうに思ってたんですけどね。
高血圧や糖尿病と同じように、一生薬を飲みながら、調子の悪い日も苦手な場所もありながら、
そーっと生きて行くしかないのだなあと、ある意味諦めました。それが今回わたしに架せられた人生なのだと。

それでも、いいことは色々あって、人の気持ちに敏感になった分、人の辛さや悲しさ、苦労している部分などが見えやすくなりました。

一人でも二人
でもいい。楽にさせてあげられたら、それがわたしの生きる意味だと思っています。


ゆうべはNさんの家に泊まって、お昼までには帰ろうと思っていたのですが、あんまりお天気が良くて、今年の最後の紅葉を見ようよと、Nさんに「六義園」に連れて行かれました。

その道すがらのことなんですが…

Nさんは、いつもいつも
、「ヒメが喜ぶように」といことを基本に考えてくれている人です。
今日は一号線に出た途端遠くに東京タワーが
綺麗に見えて、彼は東京タワーが一番迫力を持って見えるよう、一号線から愛宕通りに入るカーブを曲がって、わたしに東京タワーを見せてくれました。

車は
、「家裁前」の交差点で信号待ちをしました。
彼は斜め右角を指差して、「日比谷公園だよ。」と
教えてくれました。

「…知ってる…。」

そう答えたわたしは、全身に針が刺さったような痛みを感じて硬直していました。
「あっ。…そうだよね。ごめん。」
Nさんはすぐに気がついて気遣ってくれました



刑務所に行ったGさんの、初公判のあの曇天の朝が、まざまざとわたしの脳を支配していたのです。
あの朝、西新橋にあった国選弁護人の事務所で、被害者の方から
上申書が出されておりかなり不利と聞かされ、シュミレーションでは声も出すことも出来ずに時間を迎え、同じく証人として立ってくれる友人と弁護人とで小走りに事務所を出て、地裁に向かう途中、信号待ちをした交差点でした。

吐き気をこらえ、冷たくなって震えている手を握ってくれる人もなく、肩を抱いてくれる人もなく、わたしは裁判所に駆け込み、初めて法廷というところに足を踏み入れたのでした。

初めて見る裁判が、自分の彼氏のもので、手錠腰縄姿の彼を目の当たりにし、満席の傍聴席の法廷の真ん中で、わたしは彼を救うために証言をしたのです。



わたしはあのときもう、恐らくは病んでいたのでしょう。
正気だったらとても出来ないことをやったのです。


そして求刑五年という、突きつけられる真実。
「もうやれることは何もありません。今日で終わりです。」という弁護人の言葉…。

声をあげて泣き崩れるわたしをソファに座らせ、後ろ髪引かれながら仕事に言った友人K。
一人ぼっちになり、2時間泣き続けた裁判所。
そこに行く道が、この通りでした。


日ごろは思い出
さない事実と記憶。
けれどもわたしの全身の細胞の一つ一つに
記憶は留まっており、いまその細胞がいっせいに騒ぎ立て、針を刺されるようなあの日の痛みを思い出させていました。


     わたしは、傷ついていたんだ…。


はじめてその事に気がつきました。
悲しかった。悔しかった。切なかった。
でも、当時のわたしは、
傷ついていたんだ
そこにフタをして頑張ってしまって発病したんだ…。


真実を、一つ一つ受け止めていこう。
傷ついていたのだから、今泣いてあげよう。
あの人のためにではなく、
自分のために泣いてあげよう。

P1080598_2 切ない交差点を過ぎ、裁判所の前を行き過ぎ、わたしは自分のために泣きながら、最後の秋を見に行きました。

東京の街は、イチョウの葉が風に舞って青い空を彩っていました。

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背負えるか。

出てきたのは彼あての給料明細。数か月分。収入は月に数万円。
「何これ…どういうこと…。」

そしてそのわけが飲み込めた時、わたしはダンボールに突っ伏して泣きました。

彼は、働いていたのです。早朝、
ビルの掃除夫のアルバイトとして。
時給たった
800円で。

ヤクザと付き合ってとり付かれるまでの順調だった彼の会社は、月200万以上の売り上げがあったと裁判で聞きました。横領なんてしなくても、雇っていたのは一人だし、都心の事務所は顔見知りから借りていたので家賃は9万円。楽に暮らしていける身分だったはずです。
彼はお金に困ってではなく、自分の虚栄心を満たしたいがために横領をしたのです。女性にモテたい、ちやほやされたい、ヤクザからあがめられたい、いいカッコしてお金を貸したりしたい。そんなくだらない理由で、一番良くしてくださっていた大切なお客様の信頼を裏切り、横領をし、民事裁判で敗訴してからも一円も返さなかった…。
転落の人生でした。

けれど、時給800円で早朝掃除夫をしていた彼が、わたしは不憫でした。わたしの職場の近くに夕方来たことが何度かあったけど、そういう日は昼食を取っていないことが匂いでわかりました。
安い居酒屋で飲み食いさせ、それとは別にお札を渡すと、彼はスンナリ受け取りました。本当にどうしようもないときに、来たのでしょう。

自業自得。そう言われればその通りでしかありません。
けれども彼が不憫でした。切ない思いで胸が痛みました。

人一人の人生を背負うということが、こんなにも重大で困難なことなのかと、身に染みました。背負えるだろうか希望は、あるのだろうか。

泣き疲れて友人と弁護士にメールで報告したところ、それぞれ返事が返って来ました。
友人はこう返信して来ました。
『清濁合わせ飲む覚悟じゃなかったのかな? うろたえないで、しっかりしていないと。新受刑者処遇法のプリントアウトできたから、送ろうか。それとも明日なら会えるけど。』
わたしは翌日受け取りに行くことにして御礼を伝えました。
弁護士からは、
『そうか、それが切ないと感じるのだね? しかし男は働くのが当然。掃除夫だろうが皿洗いだろうが関係なし。しかもあんたが泣いてあげるほどのことじゃありません。』と返信がありました。

そう。その通りです。だけど、切なくて不憫でたまりませんでした。

以前来たダンボールで押入れは満杯。押収品は整理して箱は減らしたものの、部屋に積み上げておくしかなくなり、くつろげる場所は皆無になりました。
布団もしまえず、扇風機と電気ストーブが両方出たままになりました。
そして暦は師走に入り、家に居たくないわたしは、体が小康状態なのをいいことに、またどんどん予定を詰め込み始めました。

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隙間を埋める

保護司は、隣町から自転車でやって来ました。汗だくでした。
刑務所に移送されて最初に書いた彼の「帰住予定地」の地図がデタラメだったため、見つけにくかったのだと遅れた言い訳をしました。
それはそうでしょう、彼はわたしの家に来たことがないのですから、知る術がないのです。
ただ、アパートを借りるときに不動産屋に行くためにこの駅に降り立ったことがあるというだけで、来た事のない家までの地図を書けるはずがありませんでした。

保護司は建物をぐるっと見て回って、あとは喫茶店でということになり、彼は自転車を引き、わたしは保護司に見せるべく様々な書類をファイルしたものを持って、炎天下を歩きながら話しました。
近所付き合いはあるかという質問に、NOと答えたわたしに保護司はこう説明しました。
「近所づきあいがあると帰ってきたときに逆に色々勘ぐられたり聞かれたりするから、面倒なんだよね。」
なるほど、そういうものかと思いました。
保護司は気さくに、今まで担当してきているのが、少年とヤクザが殆どで、こんな風に身元引受人が居て本人の態度に問題の無い人を担当するのは初めてだと言いました。
「だけどね、仮釈放が決まって、引受人に連絡するでしょ、はいわかりました、迎えに行きますって言ってて、迎えに来ず、逃げちゃう人がけっこう居てねえ。」
信じられない話でした。

身元引受人が迎えに行かないと、仮釈放は認められません。
釈放の儀式を終えて出てみたら迎えがいない…。 そんな残酷な話があるでしょうか。
迎えに行けない・一緒に暮らせないなら、身元引受人を途中で辞任しないと、返って残酷です。頭を垂れてまた独房に戻っていく受刑者の姿を想像し、わたしは暗い気持ちになりました。

喫茶店に入り、保護司からの問診のようなものが始まりました。
一つの質問に対して、選ぶ答えが5つあります。例えば、

:あなたは○○さんの身元引受人に
:①なりたくない  ②できればなりたくない  ③どちらともいえない  ④なってもいい  ⑤ぜひなりたい

という感じで、質問が続くのです。
一通り質問と確認が終わり、なんだか大丈夫そうですね、と保護司は立ち上がりかけたのですが、わたしは引き止めました。
たった一回の法廷での証人として、果たせなかったことを今こそ補わなくてはならない。わたしは必死でした。

用意してあったファイルを見せ、書類(接見禁止決定書から、起訴状、弁論要旨、内妻照会書など)彼の全てをわたしが管理していること、面会にも欠かさず行き、週に3~4通の手紙を出していること、彼の父親が尋ねて来て土下座をせんばかりに頼まれたこと、そしてわたしのバックには、5人の仲間と、「親切すぎる」弁護士がついており、バックアップ体制が万全である事をアピールしました。
わたしは泣きながら保護司に頭を下げました。

『どうか、お力をお貸しください。一日も早く、わたしは彼をこの手に取り戻したいのです。』
保護司は感銘してくれ、最善を尽くし最適な報告書を書くことを約束してくれました。

面談は、半年毎に行われます。「心変わりしていないかを調べるわけですね?」と聞くと、彼は笑って、まあそういうことです。と答え、ついでに、保護司としての苦労や、自分の子供の愚痴などをわたしにつらつらと話して、席を立ちました。10分くらいと言っていたのが、一時間半を過ぎていました。

情状証人として、法廷で言えなかった一言を、わたしは保護司に託すことができました。


『一日も早く、彼をこの手に取り戻したいのです! お願いします!』

やっと言えた。初公判の日、弁護人から「もう出来ることは何もありません。」と言われてから引きずっていた3本目の鎖を、ようやくここで解きました。

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そびえ立つ境界

判決が出たことで、確かに一区切りという感じはありました。
そして、減刑の役に立てたという確固とした達成感が、わたしにも友人Kにもありました。
わたしにはまだまだクリアしなければならないことが山ほどあります。
一人で越えるには辛い山ばかりです。ずっと傍にいて世話して欲しいというのが本音でした。

しかし、Kは疲れ切っている。わたしがそうであるように。解放してあげなくてはいけない…。

思えば自分自身も、泣くことはあれど、よくぞ寝込まないで壊れないでここまで来れたと感じ入ります。
新聞で彼の名を見つけた日…わたしは、卒倒することもせず、泣き喚くこともせず、着替えて、化粧もして、地図を持って出かけたのです。不憫でした。

拘置所。破産。面会。差し入れ。裁判。法廷。証人。判決…。

そんなことは自分には無縁だと思って暮らしていました。
この3ヶ月でわたしはずいぶんと物知りになり、ある部分についてはわたしの弁護士よりも詳しかったりしました。店のおかみや、わたしの弁護士を拘置所に面会に連れて行ったとき、二人とも、『あなたはここに毎日一人で来ているの? こんなヤクザだらけのところに?』と、不憫がってくれました。

生まれて初めて拘置所というところに面会に赴き、生まれて初めて見る裁判が自分の彼氏のものであり、そして自分が証人として法廷に立つ…
こんな特殊な経験を出来たことを、無駄にはしたくないと思っていました。
ある年下の友達は、わたしの話を聞いて、『珍しい話ですよね。夫が倒れて…とか、亡くなってとかいう話ってたまに聞きますけど、逮捕されまして、って聞かないですよね。』と言いました。確かにわたしも聞いたことはありません。
しかも自分は自己破産を控えていて、翌週、破産の管財人との面接が控えています。
すごい経験をしてしまったなあと、しみじみ思います。


休み明けの月曜、いつものように朝一番に面会に行きました。
あんなに減刑されて、彼もきっと喜んでくれているに違いないと、わたしは笑顔で待ち構えていました。
しかし、彼の顔には笑顔は無く、感謝やねぎらいの言葉一つ、わたしは聞くことが出来なかったのです。

アクリルの仕切りは、面会室だけではなくて、私たちの心の中にもそびえていました。

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『解放してくれ』

帰りの電車に乗るころは、わたしの酔いは醒めていました。
友人Kを座らせ、わたしがその膝先に立っていると、彼がこう言いました。

『すまんが、俺をそろそろ解放してくれ。』

友人は、彼が逮捕されたときから必死にわたしを支え、愚痴を聞き、涙に付き合い、ほかのメンバーとの調整役になってくれていました。
3月~5月の仕事が最も忙しい時期に、わたしや彼のためにどれだ時間をつくり、また、休みを取ってもらったかわかりません。
Kはもともと痩せている体にさらに疲労を滲ませており、絶え間ない胃痛に悩まされていることも聞いていました。
けれど、彼氏をさらわれた今、頼りにして甘えられる男性は、友人をおいて他にはいません。なぜなら、Kは、わたしに対して特殊な感情を持たず、一切の下心がなく救ってくれていることを、わたしは理解していたからです。

そんなにもしてあげるのは、おまえは彼女を好きだからじゃないのか、という言葉にはならずとも感じるプレッシャーがキツいと、Kは言いました。女性として意識しているのではないからこそ出来るんだということを、わかってもらえないとも言いました。もう、いいだろう。この辺で俺を解放してくれ。検査に行きたい。キミもなるべく早く自立してくれ。じゃないと、その弱さにつけ込むヤツが出てくる。


わたしは、黙っていました。
解放してあげないとこの人は倒れてしまう。だけど…。

それを見越したようにKは付け加えました。表面的にでいい。相談には乗るし愚痴も聞く。助けて行く。だけど、窓口をほかのメンバーに譲らせてくれ。

わたしは、承知せざるを得ませんでした。
泡沫の宴は終わり、それぞれが家路について、一人づつになりました。

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歓喜の宴

勇んで和田倉公園に入ると、ガラス張りのカフェの入り口には、非情にも「CLOSE」の札が下がっていました。でも、中でお茶している人もいます。時間は2時半。どうやら2時半から5時半くらいまで一端クローズするらしいのです。
がっかりして、わたしたちは外の椅子に座り込みました。
仲間が、自販機でジュースを買ってきてくれ、「なんかしょぼいけど」などど言いながら、缶ジュースでとりあえず乾杯をしました。

わたしは弁護士にメールをしました。まだ帰り着いていないかもしれないけどと思いつつ、来てくださったことの御礼と、減刑を勝ち取れたのは情状証人のことを教えていただけたからなので、そのお礼も重ねて伝えました。そして、東京駅周辺で打ち上げをやる予定でいるので、もしよかったらとお誘いしてみました。

ほどなく返信が来て、「お仲間がたくさんいらしたので、安心して帰りました。本当に良かったですね。楽しい打ち上げをどうぞ。私は風邪気味なので失礼しますね。」とありました。体調が思わしくないのに来てくださったんだなあと、私たち全員が彼女のファンになりました。

陽の下で、ひっきりなしにわたしたちは喋り、笑い、それぞれが必要な各知り合いにメールをし、1時間ほど休憩しました。
そしてほかの二人が合流できる夕刻まで、どうしてもちゃんと乾杯したいという友人に連れられて(全員が大酒飲みなので)、東京駅の中にある蕎麦屋に落ち着きました。
そこでビールを飲んで、軽く酔ってから、八重洲の居酒屋に移動して二人を待ちました。  

いつも遅れて登場するボスも、どう仕事をやっつけたのか6時調度に現れました。
若いメンバーも揃い、わたしを真ん中に据えて、大音量の乾杯で、歓喜の宴はスタートしました。

思えば、いつも楽しい飲み会でした。
友人とボスが議論して終わってしまう回もあったりしましたが、いつも、逸脱せず、下品にならず、絡む人も潰れる人も無く、知的な笑いに満ちた楽しい飲み会でした。
でもこの日の打ち上げほど楽しいかったことは無かったように思います。記憶に残ってないくらい発散しました。

6人はスキップしながら八重洲通りを横切り、カラオケ屋に入り、声が枯れるほど叫び、踊り、クタクタになるまで遊びました。
可能なことなら、奢りたかった。でも、あのとき一体誰がどういう風に払ってくれたのか、まったく覚えていません。彼が逮捕されるまでは、年齢性別関係なく、全部ワリカンで通してきた会でした。

彼が逮捕されてから3ヶ月近く、会っても沈痛な相談ばかりになり、楽しい酒を飲んでいなかったため、その夜は全員が弾けました。達成感がありました。

彼も、喜んでいてくれるだろう。
わたしたちはそう思い込んでいました。

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そしてわたしへの判決

判決に続いて、主文が読み上げられました。
それを聞きながらもわたしの心からは歓喜の花火が吹き上がっていました。
減らせた。減らしてもらえた。
減らして、あげられた。

判決文の内容は、もちろん罪をいさめるもので、被害者のかたの信頼を裏切り、多大な精神的・物理的苦痛を与えたことを強くとがめられていました。
しかしながら、と裁判官は続けました。
支援してくれるグループがあり、婚約者の存在があり、婚約者は毎日面会に訪れ被告を支えており、結婚を決意している。更生を期待する意味をこめての判決である。

グループのことも、わたしの存在とやって来たことにも、裁判官は、反応してくれたのです。

未決拘留の差し引きは、30日間とするとのことでした。
ほぼ3ヶ月を未決で拘留されたわけですが、全部を引いてくれるのではなく、三分の一ほどでした。
3年と9ヶ月。これが彼に架された実刑でした。

しっかりと罪を償ってきてください、という裁判官の言葉に、彼は深々と頭を垂れ、そしてまた手錠をされ腰縄を結ばれました。

法廷を出ていくときに、傍聴席に向かってきちんと一礼をしました。
検事は、悔しそうな表情で出て行きました。
待合室に向かうとき、女神はわたしに微笑んで廊下に出て行きました。


わたしたちは待合室になだれ込みました。
弁護人が、助手とともに入って来ました。晴れやかな笑顔でした。

『減らして来ましたね。』
弁護人の第一声はこうでした。
『よくて4年、悪くすると4年6ヶ月と覚悟していたんです。』
『先生、本当にありがとうございました』
泣きながら、でもこれはうれし涙でそう頭を下げると、弁護人は破顔して、
『いえ、これは、あなたがたの力です。よくやってくれました。今回は助けられました。勉強になりました。』
そう言ってくださったのです。

わたしにはもちろんですが、休みを取り、駆けつけてくれた友人と仲間たちにとって、この上ないねぎらいの言葉でした。
『判決文の中で、あのように明確に情状証人のことについて触れるのは、大変珍しいことなんです。4行使用してありました。これは、すごいことなんですよ。少し前に900人の署名をもって臨んだ裁判をやったのですが、刑の軽減には繋がったものの、判決文ではたった一言も、それには触れてありませんでした。ですから、これがどんなにすごいことだか、わかりますよね。これは、みなさんの頑張りの結果です。』
わたしは嬉しくてボロボロ泣きました。

『刑期は、未決拘留を差し引くと45ヶ月間。しかし、本人の態度が良く、受け入れの態勢もしっかりあって、更生が期待できるとなれば、最短で刑期の三分の二での仮出所が可能と考えられれます。つまり30ヶ月。早ければ2年半です。これからも頑張ってください。今回はこちらがお礼を言いたいくらいです。お疲れ様でした。』
弁護人はそう言って出て行かれました。
助手の方から証拠品として提出していた書類・賞状などを受け取り、わたしたちは固いベンチにとりあえず座りました。


よかった、よかった、とつぶやきながらわたしは泣きました。達成感のある、爽やかな涙でした。
友人はグループのボスに電話をして報告しました。ボスもただ、「よかった、よかった」というだけであとは言葉にならなかったようでした。今日来れなかった若いメンバーにもメールで知らせました。
そしてあらためて、情状証人のことを教えてくれたわたしの弁護士に感謝しました。


わたしたちは4人で、東京地裁を出ました。
初公判の日と違って、湿気のない、うす曇りの、さわやかな午後でした。

どこに行く? ねえ、どうする?
わたしは完全ハイテンションでした。

鞄から東京の地図を出すと、なんでオマエ東京の地図なんか持ち歩いてんだよ!みんなに突っ込まれました。
わたしは、彼が居なくなってから地図を持ち歩くようになったのです。
それまでは、目を瞑って彼に手を引かれて都内を移動していたようなものでした。一人にされてから、そのことに気付いて地図を持ったのです。

「ここに行こう、和田倉公園! ここのカフェでお茶しよう!」
まだ陽は高く、居酒屋もやってないと考え、とりあえず休憩しようと思いました。

わたしたちは4人で子供のように手を繋ぎ、スキップすらしそうな勢いで、内堀通りを闊歩しました。

努力が実った実感に、わたしは有頂天でした。

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わたしの女神

地裁に着くと、仲間二人は喫煙室に行ってしまい、わたしはにぎわう午後のロビーで少しの間一人になりました。
頬を涙が伝って来ました。
怖い。怖い。怖い。
手足が冷たくなり、吐き気がして来ました。

鞄のポケットを探ってみましたが、いつも持っていたはずの「救心」がありません。
蒼白になっているわたしのところに戻ってきたメンバーが、どうしたのって心配してくれました。
きもちわるいの、吐きそうなの、心臓飛び出しそう、救心忘れちゃった…
すると彼女は、「どっかに薬局無いか探してくるよ」と立ち上がったのです。
「いや、行かないで、傍に居て…」 一回りも年上の彼女の腕にわたしはすがって止めました。

時間が近づき、エレベーターで4階に上がりました。今回の法廷は405号。覗いてみると、20人分くらいしか傍聴席のない、小さい法廷でした。
裁判の時間もたった10分しか取ってありません。判決を言い渡して終わりなんだなと諦めました。

友人がまだ来ません。法廷の向かいにある控え室に入ってメールをすると、「今着いた。タバコ吸ったら行きます」と悠長な返事が来ました。
そこに、コツコツと廊下を歩いてくるヒールの足音がして来ました。

ああ、来てくれたんだ…。

足音で、わたしはそうと知りました。

弁護士がまた、来てくれたのです。わたしの震えと恐れがすうっと引いてゆきました。
わたしは歓喜して、仲間に彼女を紹介しました。
『ヒメのことが心配で、来ちゃいました。』と彼女は笑い、みんなに刑期や仮釈のことについて説明をしてくれました。
明るい色のスーツを着た彼女はとても綺麗で、わたしは自慢に思ったくらいです。
彼女は、わたしの女神でした。
来てくれただけで、すでにわたしは救われていたのです。

やがて友人も笑顔で合流し、時間になり、開廷となりました。
弁護人、検事とも着席しており、わたしは周りをぐるりと仲間に囲まれて、傍聴席の一番前に座りました。
雛壇に座る、お姫様のように守られていました。

知らない顔は2人しかなく、おそらくは被害者がわの人でしょう。
それ以外の8人は、すべて彼やわたしの知り合いでした。被告人側の傍聴者が殆どなのです。

彼が、手錠・腰縄姿で入廷し、傍聴席に一礼しました。
裁判官が入廷しました。

判決が読み上げられました。

『被告人を、3年と10月(とおげつ)の刑に処する。』

さんねんととおげつ?
わたしはすぐには理解できませんでした。でもしかし、5年とも4年とも言わなかった。
3年台に、減刑されたのだ!

隣で友人が小さくガッツポーズをしました。
歓喜の宴のスタートでした。

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嵐の前

判決言い渡しの前々日は、無理を言って弁護士に会ってもらう約束になっていました。
わたしたちは手紙やFAXなどではなく、電話やメールでやりとりをするようになっており、プライベートな話をする仲になりつつありました。

彼女とのランチの日、朝いつものように拘置所に面会に行くと、面会室に入ってきた彼が、わたしを見て飛びのいたのです。
びっくりした顔をしてキョロキョロとしています。
『どうしたの?』と聞いても、彼は答えません。
一体何に驚いて飛びのいたのか全くわかりません。面会にはわたししか来てないし、事前に「○○さんの面会です」と呼ばれて独房を出て来ているから、驚く理由は何もないはずなのです。
不思議に思いながら面会を終え、差し入れをし、わたしは日本橋に向かいました。

のちに彼からの手紙に、『あの日は姫が光り輝いていて眩しくて驚きました。後光が差していてとても綺麗な光でした。』と説明されてありました。
面会室には、もちろん窓はありません。蛍光灯の光だけであるし、わたしはライトもしょってない。彼の目にだけ後光が見えたのだろうと思います。
彼からは「観音様」、グループのドンからは「あなたは菩薩と阿修羅を持っている」と言われたことがありましたが、まさか後光まで差すとは思ってはいませんでした。



公判前日は、友達と、その夫、夫の弟という4人で遊びました。
友達は、判決が明日と聞いて約束を延期しようかと言ってくれたのですが、わたしは眠れなかった体にドリンク剤を投入して出かけました。とても一人ではいられる気分では無かったならです。
彼らはわたしに肉を食べさせ、カラオケに行き、デザートまで詰め込ませ、弟さんの車で駅まで送ってもらって帰りました。なんだかもう、破れかぶれです。
ですが、かれらの気遣いが嬉しく、思ったより楽しく過ごしてしまいました。
そしてその夜は、前夜寝られなかったせいもあって、ぐっすりと眠ってしまいました。

判決の言い渡しは、初公判から二週間めの、金曜午後でした。
前回の公判に来られなかったグループのメンバーが休みを取って来てくれることになっていました。
わたしは朝、差し入れのためだけに拘置所に赴き、そのあと北千住でほかのメンバーと落ち合い、拘置所の建物を臨める店で軽くランチをしました。

わたしは、無言でした。
今から自分に下される裁決を厳粛な気持ちで待っている感じでいました。

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