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2019年2月

手術7時間。

ご無沙汰でした。

2月12日に入院して、14日の朝イチから手術だった。
腫瘍をころっと取るだけなら3~4時間、
それ以外に何かあれば、7時間ほどの手術になる可能性があるという、
事前説明だった。

開けてみないと何もわからない。
腫瘍マーカーはやや高く、悪性の箇所がもしも肺に癒着していたら、
肺を切り取らなくてはならない。
肺の静脈に癒着していたら、切りたくても切るわけにもいかない。
心配してもキリがないので、わたしはあまり考えずにいた。

入れられた部屋は、タワーの病棟の最上階の角部屋。
そこしか空いてなかったようだ。
わたしは精神病患者で、わたしの主治医からの診断書と、
こちらの大学病院の精神科の医長との面談で、
個室が必要と判断され、
差額ベッド代は払わず、こんな最高な部屋があてがわれた。
夜になると東京タワーとスカイツリーが両方見えて、
晴れた朝なら、富士山も見えるはずだった。

入院してからは忙しく、
持って来た本を読む暇もなく、
あっという間に当日になってしまった。
朝イチの手術なので、点滴も、手術室に入ってからとなり、
身軽に、エレベーターで、手術室に移動した。

ベッドは、胆のうを摘出した病院は、3年のうちにテンピュールになっていて、
びっくりしたのだが、
今回は、ベッドというよりは、割れ物を送る時の緩衝材みたいで、
そーっと横たわると、中の空気が温かかった。

そして、恒例の、痛み止めの管を背中に入れる作業。
これが辛くて痛くて怖いのだ。
でも、これをしておくと、麻酔から覚めた時に、
既に、傷は痛くない。
術後も痛みがないので、すぐに動ける。なので回復がすごく早い。
わかっているから、必死に耐えていた。

ところが、途中で、手術室付きの看護師が、
「失敗しました! 切れちゃった!」と言いやがった。
それ、言っちゃダメなところ!

耐えに耐えていたわたしの精神は崩壊し、
わたしに技を決めて、体を丸めていた男性看護師の服を掴んで、
わたしはしゃくりあげて泣いてしまったのだ。

呼吸が乱れると手術に入れない。
わかってる。
パニックを起こしてはいけない。
だけど、あとちょっと、あとちょっと、と耐えているのに、
「切れちゃった!」って!
この辛さを、オマエ知ってるのか!

しゃくりあげているわたしに、麻酔医が声をかけて励ましてくれる。
執刀医も看護師ももう準備をしてそばにいるのだが、
手術が始まるまでの手術室を、取り仕切っているのは、麻酔医なのだった。

やがて眠りに落ちた。
臨死体験もしなかった。

目を覚ますと、そこは部屋のようだった。
ICUに運ばれてから、夫が「ブツ」を見せられて説明を受け、そのあと、
わたしは起こされたらしい。

今回に限り、息子にも来てもらっていたので、
わたしのベッドの横には、頭に近い方に夫が、
お腹の横に息子が立っていた。
頭に何かかぶって、マスクもしていたと思う。
わたしは息子の手を握った。
しっとりとしていて、温かい大きな手。

夫がわたしの頭を撫でて、「よく頑張ったね。」というので、
壁の時計を見たら、もうすぐ17時だった。

朝の8時20分に病室を出発したのに、もう夕方5時…。
きっとなにか、面倒なことが起きたんだろうな…と思った。

息子も、初めてそんなに長時間、手術を待つという経験をして、
疲れただろうから、帰っていいよ、と伝えた。
すると、夫も、一回帰って、そのあとまた来るからといって、
帰って行った。

ICUは、患者一人につき、看護師一人、という計算らしいが、
見ていると、決してそうしているわけではなく、
患者3人を、看護師3人が助け合って診ているような感じだった。

わたしは、いろいろな症状が出ていたが、
まずはとにかく、「鎖骨」が痛くてたまらなかった。
執刀医である主治医が来たので、鎖骨がものすごく痛い、と訴えると、
開胸して、肋骨とともに、鎖骨もぐいーんと広げたので、
痛いのは仕方がないと言う返事。
傷口は痛まないのに、鎖骨が痛くてそれがすごく辛かった。

その次に、強烈に上半身が痒くなった。
左手には、手の甲と手首に3本も針が刺されているので使えない。
わたしは右手で、掻けるところはガシガシ掻いたが、
痒みはエンドレスで、どんどんひどくなっていく。

ふと触ると、着させられているのが、綿の浴衣とかではなく、
化繊の、毛羽立った術衣だった。
それが合わなくて痒いのかもしれない。
手術前に着ていた、綿の甚平に、何とか着替えさせてもらえないか、
担当の看護師に訴えた。

戻って来た夫が体の出ているところをさすってくれるが、
テープだらけ、コードだらけで、痒みは一向に収まらない。

看護師さんは、着替えさせてくれると言ったが、
なにせ、緊急な患者ばかりのICUなので、看護師さんたちは走り回っている。
わたしの担当の看護師さんは、
若い、小柄な、きびきびとして優しい看護師さんだった。

「お着換えなんですけど、もちろんやるんですけど、
あっちで、ちょっとお通じが出ちゃった患者さんがいて、
そっちを今からみんなでお世話するので、
痒くて辛いと思うんですけど、ちょっと待っていただけますか?」
と言いに来てくれた。
「もちろんいいわよ、行って来て。」とわたしが言うと、
彼女は風のようにいなくなった。

そして、着替えの甚平を持って来ると、
点滴やら、コードやら、ドレーンやらで超ややこしいわたしを、
着替えさせてくれて、
その時に肌を見て、掻き壊して血が出てるのも見た。

面会時間が終わって夫が帰り、わたしは一人になった。
ICUでもわたしは個室に入れてもらえていた。
もちろん、眠くもなれないし眠れないので、ずっと看護師さんを見ていた。
よくもまあ、あんなに動けるなと思うくらい走り回っていて、
見ていて飽きなかった。
不自由に体を掻いているわたしを見て、
「ひょっとしたら、乾燥して痒いかもしれないですね。」と言う。

そうだ、わたしは、手術室で、消毒液を、ザバザバとかけられ、
それが乾くのを待ってからの手術だったのだ。
その間に麻酔が効いてわたしは意識をなくした。

つまり、消毒液で体を洗われたのに、なにも潤いを与えてもらえず、
テープだのシールだの貼られて、
化繊のシカシカする服を着せられていたわけだ。

ICUには、持ち込めるものが限られていて、
それぞれに全部名前を貼ってある。
わたしは、キュレルというローションを持ち込んでいることを思い出し、
それを塗りたいとお願いした。

出してもらって顔に塗ると、顔も乾燥してカピカピしていた。
看護師さんが、「お体に塗りましょうか?」と言ってくれたので、
甘えた。
頑張って体位を変えて、背中とか脇腹とかにも塗ってもらった。

そしたら、痒みは楽になった。
救われた。

麻酔の副作用で、やや熱が高い。
でも、熱なんて辛くない。

夜半を過ぎたあたりで、あの嫌な感じが、徐々に高まって来た。
気持ちが悪い。
ムカムカする。

なんとかやり過ごしたくて、ひたすらじっとして、目も閉じていたが、
ダメだった。
夜中一時半過ぎに、看護師さんが戻って来た時、
「気持ちが悪いです。」と言って、
脇に置いてあった豆型の容器に顔を持って行った。
かと言って、何も食べてないので、出るものがない。
苦しんでいると、上手に背中をさすってくれ、
えづくと、そのタイミングで合いの手を入れて、
吐きやすい環境を、整えてくれる。
これは、非常に高度な技術だと思った。
さんざんえづいて、彼女の合いの手とさすってくれる手のおかげで、
胃液を吐いた。

3回くらいに分けて吐いたが、それ一回で済んだので、
卵巣の時みたいに、ずっと吐き気と闘うことはなく、助かった。
長く麻酔をかけられていたから、副作用が出て然りだと思った。

ICUの夜は、こんな風に更けて行った。


また、続きをいずれ書きます。
(術後なので、無理をしてはならないのです。)

                                         伽羅

                

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夫が心配している。

再婚して11年目に突入した。

けれど、11月にはもう、肺の腫瘍の手術をすることは決まっており、
10年で3回もの手術は、多いと思ったし、申し訳なかった。

働きに行けず(ひそかに打診は続けていたが駄目だったのだ)
稼ぐことをせず、
家事もやらず、お姑さんの世話もせず。

何にもしない状態で、生かしておいてもらいながら、
更には病気になって、手術が必要となり、
迷惑をかけるし、お金もかかるし、
本当に何のために夫は結婚したのだろうかと、
申し訳がなかった。

最初は、卵巣嚢腫。
うつされた病気を診てもらいに婦人科に行ったところ、
左の卵巣が鶏卵大に腫れていた。
なので、摘出することになった。

その時は、出産以来、初めての入院だったので、
特に深く考えず、
お金のかからない、4人部屋にした。

大失敗だった。

カーテン一枚隣に、見知らぬ他人が寝ている。
わたしは不眠症だから眠れない。
しかも、麻酔の副作用で、すごい吐き気。
翌日、皆さんに食事が配られるが、その匂いにえづいてしまい、
いたたまれない。
辛すぎる。

熱が出た人、頭痛がした人がいたけれど、吐いてたのはわたしだけで、
みんなより回復が遅れる。
「5時までに立って! じゃないと、交替で、看護師減るから、
トイレの世話とかしにくくなるのよ!」という、スパルタの看護師さんのおかげで、
おえええ~って言いながらも立って、歩いて、
何とか点滴の架台に助けられてトイレに行けて、
管を抜いてもらえた。

けれども、布一枚隣に、知らない人がいる、ということに、
わたしは耐えきれず、
退院してきてから、だいぶ長く、鬱状態だった。

次は、胆石が詰まった。

詰まっている間に肝臓さんの数値がエライことになってしまったようで、
すぐに車椅子に乗せられ、緊急入院だったので、
選べず、4人部屋だった。
他の皆さんには食事が出るのに、
わたしは、壮絶な、丸五日間の絶対絶食。
水とお茶を交互にちびちび、飲んでいるしかなかった。

あの4人部屋でも、精神をやられた。

なので、もう助からない胆石でみっしりの胆のうを、摘出する時は、
個室に入らせて欲しいと夫に願い出た。

夫は、渋った。
「いくらだと思ってるんだよ!」
「ガンでもないくせに!」
「死ぬわけでもないのに!」と、
個室の許可をくれなかった。

彼の最愛の奥さんは、ガンで、その病院で亡くなっているので、
たかが胆のうを取るくらいの手術で、個室は贅沢なのだそうだ。

そのせいで、わたしの精神がどうなろうが、
そんなことはどうでもいい。
知ったこっちゃない。
お金のほうが大事。


わたしは、主治医と相談して、「個室じゃないと、精神を保てないので、
個室が確実に取れるよう、手術は一か月後でいいので、
押さえてもらえますか?」と頼んだ。

自分の郵便局のささやかな貯金を崩すつもりだった。
その日の会計の時、夫から、「個室でも可。」という、
短い、愛のない、メールが来た。

どうせ許可してくれるなら、頼んだ時になぜ、いいよ、と言えないのだろうか。
ありがたみが全然違うのに。

わたしは、夫に、
「一人で入院するし、一人で退院して来る。だから休まなくていい。
手術の時は家族が来てないと駄目だから頼むけれど、
それ以外は一切、面会は不要。
忙しいんだ、メシ作らなきゃとうるさく言われるのが不愉快だから、来ないで。」
と伝えた。

夫は何故か、土日とも、12時に来た。
意味がわからない。
こっちはさっさと食べて、下げに来るまでに食べ終えていなくてはならず、
喋っていられない。
返って邪魔な時間帯になぜ来るのかが理解できなかった。

退院も一人で、タクシーは使ったが、
一人で帰って来た。

あんな言われ方をされて、感謝する気持ちもなかったし、
本当に冷たくて、わたしの精神なんて、どーでもいいと思ってるんだ、としか、
思えなかった。

今回、亡くなった奥さんと同じ部位、肺の手術。

厳密にいえば、奥さんは肺の中皮という膜のガンだった。
わたしのは「縦隔腫瘍」と言って、
肺でもなく、心臓でもなく、食道でもない「縦隔」という空間に出来ている腫瘍。

大動脈とは数ミリ離れているらしいが、
内膜にどれくらい密着しているのか、
肺側にどれくらい癒着しているのか、
それは、開けてみないとわからない。

形が丸っこく、半透明なので、
悪性っぽくは見えないが、
腫瘍マーカーの値は、少し高めで、
一部、悪性化が始まっているかもしれない、とのことだった。

それも、開けてみて、採ってみて、とったものを調べてみないとわからない。
今の時点では、何もわからないのだ。


わたしは、悪性ではないと思っている。
悪性だったら、もっと、どこかに、不調が出ると思うのだ。
確かに、声が枯れやすいので、そこは問題化もしれないが、
父も、母も、ガンの手術の前は、自覚症状こそない、とは言っていたが、
どこか、おかしかった。

自分の体なので、わかる。
一部悪性化していたとしても、死には至らないと思っている。
そう思ってないと、やってられない。


初めて、夫が心配をしている姿を見た。

年末のイレウスの時だって、あんなに苦しんで唸っているわたしを見てたのに、
病室の、第一希望はトイレなしの安い個室、
だが、第二希望が、二人部屋にしてあった。

あんなに、個室じゃないと無理!、って言ってあるのに、だ。
そんなにわたしにお金をかけるのが惜しいのか!と喧嘩の時に聞いたら、
ああ、惜しいね!と言い放った。

わたしの精神より、病状より、お金の方が大事な夫。
それを言うと「金がなきゃ、生きていけないだろうが!」と怒鳴るが、
夫は、そこそこの資産家だ。
結婚前は、それでわたしを吊っておきながら、
結婚したら、病院の個室代が、惜しくてたまらないのだ。


でも、今回はわたしの命の心配をしていた。
もしも死んだら、という話になったので、
わたしは、遺言状のありかを教えた。
執行人が夫であり、息子と相談しながらやって欲しいと書いてある、
ちまは、譲渡主さんに話してから、息子夫婦に頼んで欲しいと伝えた。

幽体離脱しちゃったら、頑張って体に戻るからさ。
わたしと夫はハグをして慰め合った。

悪性ではないという保証はない。
あけてみて、採ってみて、悪性っぽかったら、
肺の一部や、リンパ節などを切除しなくてはならない。
開いて、採って、閉じて、二週間の入院、では、終わらないかもしれない。

かと言って、今やれることは何もないのだ。

そうね、もう、気合いしかないんだよね。

生きていたい理由があるんだ。
やりたいことを、見つけたんだよ。
それで自分がどうなることを望んでいるのかがわかっちゃったんだよ。

だから、何かを失っても、
手さえ動くなら、生きていたい。
そういう欲が出ちゃった。

いつ死んでも別にいいや~って思って生きていたのにね。


12日に入院で、タブレットを持って入るけれど、
手術後はICUに入るし、数日間は身動きも取れないだろうから、
この「銀靴」の更新は、
生きて帰ってくるまでは、無いかもしれません。

更新が止まったら、
ああ、駄目だったんだな、と思ってください。

そんなことになるつもりはないですが。


それでは、行ってまいります。

                                           伽羅

                

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マイナス8キロ。

思えば、10月からずっと、無理をしていた。

数年ぶりに出展し、その初日に、委託先が決まった。
出展を終えると、わたしは猛スピードでフォトブックを編集し、入稿し、
作品を作り足し、
委託店舗さんにその月のうちに納めるよう、準備を進めていた。

そこに、ムギが、突然食べなくなった。
食べない、イコール、死ぬかもしれない、だ。
わたしは一人でムギを捕獲してキャリーに入れ、
動物病院に連れて行って、入院させた。

原因はあれかも、これかも、と、二転三転したが、
わからない。
ムギは食べない。
わたしは、毎日毎日、面会に通って、
二時間ムギを抱きかかえて過ごした。

そして制作をして、委託店舗さんに行って、ディスプレーして、
納品に至った。

そしたらもう、11月の出展がすぐそこだ。

幸い、ムギは食べられるようになり、出るものが出て、
退院になった。
ムギはわたしに怒っていて、しばらくは会ってくれなかった。
毎日面会に行って抱きしめてたのも、退院させてきたのも、ママなのに。

ムギはパパに怒られて、やっとわたしに乗るようになった。

ムギが入院している時だったかな、その後かな、
血を吐いた。

消化器って、割と容易く出血するので、あまり気に留めなかった。
リウマチ内科の先生に一応報告したら、
太田胃散飲んでてくださいね、って言われた。

その後も、出展の準備と委託店舗さんへの入れ替えなどで、
ずっとずっと忙しくしていて、
全く自炊をしていなかった。
買って来たものを温めもせずに食べたり、レトルトで済ませたり。

11月になって、咳が出始めた。
時間が惜しいので、市販薬で何とかならないか、しばらく試したが、
ダメなので、
自宅に一番近いクリニックに行って、泣きついて、気管支炎の飲み薬と、
胸に貼る、気管支拡張のテープを出してもらった。

その状態で、委託店舗さんに行き、入れ替えをしていると、
わたしの咳を聞いて、店長さんが、
「それ、咳喘息じゃないかしら。わたしもそうなんだけど、そっくりよ。」
とおっしゃった。

…ああ、もうだめだな…。

わたしはその意見に従って、地元の総合病院にかかった。
初診の医者が気まぐれで、レントゲンではなく、CTを撮った。

それで、肺に腫瘍があるのが発見された。
既に5センチあって、大動脈との隙間は、数ミリという有り様だった。

咳は、気管支炎だった。
抗生物質を含むお薬で、一週間で治まるよ、と言われ、
わたしはリウマチの治療をストップして、気管支炎の薬をしっかり飲んだ。
けれども、全く咳が治まらず、翌週行くと、
「なんだよ、咳喘息になっちゃってるじゃないか。」と、
ドクターががっくりしていた。

すぐに治療が喘息用に変わり、ステロイドを点滴されて、薬も変わった。
もう、寝た切りだった。

咳をしていては、食べるものも食べられない。
だんだん痩せて来た。
もとがすごく太っているので、毎日会う人にはわからないが、
数カ月ぶりに会う人ならわかるだろう。

咳が治まってからは、紹介された大学病院に行って、
検査検査、問診、検査検査、問診、の日々が始まった。

検査が多いので絶食も多く、夕方まで何も食べられない日もあった。

そして、年末に、腸が絡む、癒着性イレウスになってしまった。

食生活が酷すぎたのだ。
自炊をする暇がなく、温かいものも食べておらず、
買って来たお総菜やお握りやお弁当で済ませていた。

イレウスは、そんなわたしへの「警告」だったのだ。
このままだと、大変なことになるよ?という。

幸い、緊急手術にはならず、短期間で退院し、
お粥オンリーね!と強く念押しされて、
お正月もお粥三昧だったが、
自分で煮炊きをすることの大切さを、イレウスは教えてくれた。

もう、普通食で大丈夫、と言われているのに、
わたしは自分が作るお粥にハマって、
毎日お粥を炊いている。
一日一食はお粥。甘めの梅干しで食べる。
全然、全然、飽きない。
どういことだろうか?

脂ものがあまり食べられなくなった。
カキフライ弁当を買ったら、カキフライが3個で限界だった。

甘いものは食べている。心の栄養だから。
でも、おかずは煮物や湯豆腐、
脂身のない、ささみを焼いたり、豚肉のロースを焼いたりしている。

体重が、10月から、8キロ減った。

例の、あの帰省で、母と揉めて、
そのあと、過食スイッチが入ってしまい、
パンとチョコを狂ったように食べて、半年で6キロも太った。
息子がビックリしていた。

やっと、やっと、あの憎い6キロを落とせたのだ。

ボディセッションというのに行ったとき、
「あなたは、太っているのではなく、むくんでいるのですよ。」
「循環が良くなれば、アッと今に12キロ痩せます。」と言われた。

本当に12キロ痩せられるのか、わからないけれど、
とにかく、8キロ減って、アゴがわかるようになった。
顔つきが変わった。
顔にしわが出来た。

今まで、しわがなかったのは、パーンとむくんでいたからなのだ。

12日に、入院する。
制作を終えたので、この後は、入院に向けての準備に入る。

手術は怖い。
開胸するから、今までの手術とは比べ物にならない。
肺炎になったりしなければ、二週間で帰れる。
ちまが可哀想だから、とにかく早く退院して、
ちまとのんびり二人で過ごしたい。

まだまだ、太った人のままだけれど、
体重が減ったのは嬉しい。
それが、警告であったからでもいい。
病気由来でもいい。
体重が減って嬉しい。

ボタンが閉まらなかった、お気に入りの水色のダウンコートが着られる。
それも嬉しい。

明日、委託店舗さんに行き、あとはちまちまと用事をこなし、
三連休明けに、入院となる。

                                        

                                        伽羅

                

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