カウンセラーさんがドン引き。
三週間ぶりのカウンセリングだった。
あれからいろいろあったことを話したが、
今、時期的に、
「母の日」という文字がそこかしこにあることが、すごく苦しいと話した。
わたしが最後に贈ったのは、
それを選んだのだ。
選んで、これをお願いします、と店員さんに伝えた途端、
立っていられなくなり膝から崩れて、
支えられて椅子に座らせてもらい、
ガクガク震える手で、送り状を書いた。
当時すでに、母と話すのが無理だったので、
家の電話は常に留守電にしていた。
届いたよ、ありがとうな、という伝言が残っていたので、
「なんやこれ、こんなん、何に使うんや、って、お父さんが言っっとったわ~。」
だった。
母という人は、一人で敵と立ち向かう勇気のない、ちっぽけな人なのだ。
わたしを貶めて悪口を父に吹聴する。
必ず誰かを味方につけておく、卑怯な人だ。
そんな母親が、いるのだろうか?
子を持つ母として、わたしは、信じがたい。
その電話のあと、わたしは、吐いて、下して、
二日間寝込んだ。
一番大事にしていた、薔薇の箱を、
風呂の焚きつけの紙類を捨てるゴミ箱に、
見えるように捨てるような親だ。
あんな綺麗な文箱、良さがわからなくて当然だった。
再婚した後、夫がわたしに代わって、花を贈り続けてくれてきたが、
母は、「母の日には、やっぱりこういう立派な花でしょうよー。」とご満悦だった。
わたしは花に頼らず、いつも、毎年、どうにか母を喜ばせたくて、
毎年苦しんで、探して、選んで、色々送って来たが、
捨てられたり、返さりたり、とりあえずは飾ってあっても、
「こんなん、母の日のプレゼントとしては、なんか違う!」と言われた。
カウンセラーさんには、色紙で作ったカーネーションを入れて、
翌々日には、焚きつけ用のゴミ箱に、捨てられてたと話すと、
心から同情してくださった。
あれが多分、7歳だったと記憶している。
そこから、18歳で、就職したてで、まだ給料が出ず、お金がなくて、
800円のマグカップをあげて、
「あんなもんでごまかすつもりか!」と怒鳴られた18歳まで、
11年間の、母の日の記憶が、すっぽり、抜けている。
おそらくは、あまりにも辛い記憶で、
固く封印をして、穴に埋めてあるのだろう、と言うと、
カウンセラーさんも、そうだと思いますよ、と言ってらした。
それよりも、サラダの話に、
カウンセラーさんが、マジでドン引きしていた。
小学3年生の時、わたしは、外見が男の子にしか見られなかったので、
女らしくなりたくて、
それで、「今日、お父さんおるし、わたしがサラダ作るね。」と言って、
習ったこともない小学生が作ったのだから、
多分、キュウリとキャベツを刻んで、塩もみもせず、
ただマヨネーズで和えただけのものを、出したんだと思う。
当然、あとから野菜の汁が出て来てビショビショ。
マズいに決まってる。
「お母さんもサラダ作ったわ。」と言い、サラダをテーブルに並べたのだ。
その差は歴然だ。
なんで?
なんでそんな酷いことをするのか、わからなかった。
この話を、カウンセラーさんにするのが、初めてだったらしくて、
普通に、ドン引きしていた。
…だよね。
殴られなかったとしても、言葉ややり口で、わたしは虐待を受けたとはっきり思う。
カウンセラーさんは、
「そんな親ごさんに育てられて、よくまあ、あなたは頑張りましたね。
息子さんを立派に育てて、偉かったですよ。」と言ってくださった。
人と人は、運命で出会う。
その出会いは、用意はされている。
けれど、それをどうするかは、今生の自分が決めていい。
「縁を切るための縁」というのも、存在しているそうだ。
わたしは母にされたことを、息子にしないように必死に自分を抑圧した。
一杯ほめて、ほめて、好きだよ、愛してるよ、可愛いよと、抱きしめて、育てた。
「ママ、いつもほめてくれるね…。」と、
息子は照れていて、
わたしが頑張って褒めてることは、バレていたみたいだ。
それでも、親にけなされ続け、否定され続け、
夢をつぶされ、プレゼントを捨てられ、
そうまでして育ったわたしは、この息子を守るためなら、何だってする。
だから、息子まで傷つけた母を、一生涯、許すことはない。
容認した父も同罪。
けれど、許さないからといって、愛情がゼロなのではない。
服を見れば、母に似合いそうだなと考えるし、
父の昔話を、もっと聞きたかったのになと、思う。
それが叶わない人生を選んだのは自分だということだ。
親が死ねば悲しむ。
後悔は、必ずする。
後悔をする人生を、わたしは自分に課したのだ。
そうするしかなかったわたしの苦しみを、
わたしはここで延々と書き続けるだろう。
正しい生き方を選べないことだってあるんだよ。
わたしの正義は、息子の心を守る事。
ただそれだけだ。
伽羅

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