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2007年11月

眼の力

その夜から生理が始まった。どうも生理直前は過剰反応をするらしい。

翌日Nさんの家にお邪魔したが、夕方予期不安があり、「発作が出る」とわたしはNさんに告げた。
彼も慣れてきていて、薬を飲ませると和室に座布団を敷き、部屋を薄暗くして、わたしをしっかり抱きしめていてくれた。
薬を飲んでも、抱きしめてもらっても、発作は出る。出るものは出る。
けれども、泣いて震える自分を抱きしめてくれる胸があるということは、どんなにか安心する恵まれた状況だろうか。

発作が治まったころには夕飯が始まっており、わたしは彼の家族と食卓に付いたが、手が震えて箸が持てず、介護されるように食事を手伝ってもらった。


こんな役に立たない、役に立たないどころか手のかかる嫁を、誰が望むというのか。
けれどわたしはまだ、そういうことに考えが及ばなかった。


翌週も具合が悪く動けない日々が続いた。
1時間も2時間も寝付けないくせに、いったん寝付くと平気で9時間でも10時間でも眠り続ける。そのことでNさんに、何度目かの咎めを受けてしまった。

そりゃあ朝5時に起きて11時に寝ている人間のほうが「正しい」し、社会的発言権もある。そうじゃないわたしみたいな人間をだらしなく思うだろう。

けれどわたしは眠くならないのだ。アクビひとつ出ないのだ。眠るために布団に入るのも怖いのだ。
仕方なく1時くらいに布団に入るが、薬が効いて痺れるのは体だけで、目は爛々とし、限りなく自責の念で涙が出る。
ちいさかった息子を叩いたことまで思い出して、わたしは後悔して泣いた。
泣かずに寝られる夜などなかった。
気持ちよく眠くなって眠りに入る感触など忘れてしまった。


「いっそ眠くないならずっと起きていれば? そしたら翌日は嫌でも早く寝付けるでしょ。」
と言われたことがあった。
寝付けないことは苦しい。眠れない人はもっと気の毒だ。
けれどわたしにとっては、寝付けないことそのものよりも、その間に自分に起きる症状が怖かった。
それは健常な人にはわかるまい。
「寝なくては…!」という強迫観念。眠れない自分への苛立ち。過去の自分への自責。

そういうものに苦しみながら眠れない数時間を過ごす。それが苦しいのだ。


金曜のカウンセリングには、重い体に鞭打って出かけて行った。
辿り着いたときにはヨレヨレのわたしが、1時間半心情をさらしてくると、帰りは元気になれた。さまざまなことに「気付く」という意味で、大切な時間であり、有効な療法だった。
「化粧を、変えましたか?」
カウンセラーはわたしの顔を覗いてそう尋ねた。
「いえ? わたし、化粧をしていないので。…えっと何か?」
カウンセラーは照れたように笑ってこう言った。
「いえね、綺麗になられたなあと思って…。最初に来られたときに比べると、目に力が出ましたね。」

ずっとうつうつとして来て、化粧すらあきらめたスッピンのわたしは、カウンセラーとはいえ男性にそういわれたことが素直に嬉しかった。
帰り道、いつもそうするように、彼と弁護士に報告メールをした。


それがあんなことになるとは思いもせず、ただはしゃいでいたにすぎなかった。
8月のお盆の時期に入ろうとしていた。

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インナーチャイルドは泣き叫ぶ

墜ちてから4日目、ようやくNさんとゆっくりメールを交わす時間が訪れた。
彼が出張に行く新幹線の車中からメールしてきた時、わたしは珍しく目覚めて返信をした。
まだ早朝6時台だった。

彼は本当に忙しかったのだ。毎日疲れ果てているのだ。
けれどわたしは彼に思いを伝えた。
無視しないでほしい。わかってくれなくてもいい。アドバイスもいらない。単に病気なんだから、訴えた時に「何かしてあげなくては!」と考えなくていい。

ただ、無視しないでほしいのだと伝えた。

彼は理解したかどうかはわからなかったが、謝ってくれた。
弱りきっているわたしに「僕だってこんなに大変なんだよ!」という叫びを飲み込んだように思えた。
それでもわたしの症状や気持ちを優先して謝ってくれた。

わたしはほっとして熱を出した。

そして結局その日も眠り続けた。

この当時のわたしは、彼の言葉一つ一つに過敏になりすぎており、不用意に発せられた一つの言葉によって、簡単に墜ちたり潰れたりを繰り返していた。
それは秋を過ぎるまでずっと続いた。

弁護士の言葉を借りれば
「姫はハリセンボンのように過剰に過敏な針が全身から突き出している上に、皮膚の下にはあちこち地雷が埋まっている。その地雷はどこにあるのかヒメ本人にもわかっておらず、しかも日によって埋まってる位置が違う。」

苦しい時期だった。わたしも、Nさんも。苦しい3ヶ月間だった。


3回目のカウンセリングに訪れた時、まだわたしは人生の説明が全然終わってなかった。
やっと子供の頃の話に入りかけた。
両親のこと、父と母の関係、社会性。
そして子供としてのわたしと母の関係…。大人同士としての関係…。

カウンセラーには鉄則があるという。
クライアントに対して特別な感情を抱かないこと。守秘義務。
そのほかに「心はホットに、頭はクールに。」という鉄則があることを教えてくれた。
それは、「慈愛を持った温かい心で話を聞くこと。しかし感情的に同調して頭を熱くしないこと。」ということだそうだ。

わたしのカウンセラーはそう説明したあとこう言った。
「私は実はそれをこらえるのに毎回苦労しています。あなたの話を聞いて、余りにも深く理解し同調してしまい、泣きそうになってしまうのです。」
そうなんですか?とわたしは笑顔を返した。

「小さい頃のあなたは、お母さんに何を望んでいましたか?」

「認めて欲しかったです。誉めてほしかったです。優しくされたかったんです。」
質問されてわたしはよどみなく答えた。自分でもちょっとびっくりした。

「では、あなたのなかに居る、小さい子を抱きしめてあげられるようになりましょうね。」
カウンセラーはそして続けて話した。
「私の中にも、居るんです。いい子を演じ続けてきた男の子が。」

「発病して、会社を辞めて、家の借金を背負って、離婚をして、一人になったとき、私はよく一人で貧乏旅に出て、キレイな景色を見て回りました。そうすると、その子が喜んでいるのがわかるんです。キレイだねって言うと一緒に喜ぶんです。それがわかるんですよ。」

「あなたも、小さい頃の自分を出してやって、抱きしめてやって、もういいんだよって言ってあげましょうね。」


こらえきれずにわたしは泣いた。声を上げて泣いた。
泣いてひき付けて、吐きそうになった。

椅子から立ち上がったかと思うと、わたしから少し離れて、カウンセラーは後ろを向いた。
そうしてそのままわたしの泣き声を聴いていた。

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言葉が欲しかった。

今日は本編です。

7月の中旬以降も、わたしのウツ状態は芳しくなかった。
土日のどちらかにはNさんと会うが、以前にNさんの家で緊張のあまりパニック発作を起こしたショックから立ち直れず、昼間ちょこっと行くに留めた。

彼の部屋で一緒にPCを見ながら、北海道旅行の話をした。

去年、まだ結婚の意志も固まらない時期に、彼はわたしを函館に連れて行ってくれた。
一生行くことは叶うわけが無いと思っていた憧れの地に、わたしは彼と降り立った。
夢のような3日間だった。

今年もまた行きたい…。
わたしの思いを汲んで彼は色々計画を練ってくれた。支笏湖や洞爺湖も見たいけど、とりあえず小樽には行こうね。
幸せな気持ちで宿の情報まで見て、その日は夕方電車で帰った。



PCは修理に出してしまっており、わたしはつまらなかった。
ブログを書くことがどんなに日常の支えになっているかを知った。まだ、ブログ村にも登録しておらず、訪れてくれる読者も10名から20名くらいの、小さい小さいブログだったが、手帳を繰り、当時のことを思い出しながら書いて行く作業は、わたしの混乱した脳を徐々に整理して行く気がしていた。

Nさんは一年で最も忙しい時期に突入していた。
彼も疲れていた。
けれどわたしはまだまだうつ病の初心者で、彼に「本来のウツ病じゃないんじゃないの?」とでも言われようなら、本来って何よ、わたしのうつ病は嘘だとでも言いたいの?と食って掛かった。

その週は特に具合が悪く、寝付けない夜に苦しみ、Nさんにメールをする。
翌朝定例のメールが来るが、そんなことには関心がないかのようにまったく無視されていた。

どこでもすぐに眠れる彼。寝付く時の記憶すらなく、自分が寝ていたということにも気が付かない彼。
そんな彼に、「どれもこれもこぞって眠くするぞ」という薬に加えて睡眠薬まで飲みながらも、寝付けずに悶々とするわたしの苦しさを理解するのは不可能だった。
早く起きれば早く寝れるんじゃないの?という一般人の論理を突きつけられていたのだった。

朝のメールで完全に無視され、その後一日メールは来なかった。
仕事中にメールして欲しいと言っているのではない。
昼食のときとか、トイレに行った時とかに、ほんの一言「どうしてる? 大丈夫?」と言葉かけが欲しかったのだ。
わたしは更に具合が悪く、その日はまったく起き上がれなかった。
夜遅くに来たメールは、彼自身の帰宅を知らせるものに過ぎず、わたしはもう一度無視をされた。

その翌朝のメールでも、わたしの具合については一切触れられていなかった。
わたしは墜ちて起き上がれず、その日もただただ天井を見上げて過ごした。

悲しい悲しい悲しい。

一番理解して欲しい人に理解されない。気にかけてもらえない。無視をされる。やさしくしてもらえない。
泣きながらわたしは深く墜ちた。

彼の愛には一点の曇りもなく、わたしだけを、これ以上ないほど愛して慈しんでいてくれている。彼はぜったいにわたしを裏切らない人である。
それはわかっている。
合併したばかりのごった返しの社内で責任のある仕事をする管理職であり、研究者でもある彼は、きっとその時いっぱいいっぱいだったに違いない。

では、わたしの不調を無視するのは許されるのか。
それは取るに足らない些細なことなのか。
一点の曇りもなければ、日常の瑣末なことはスルーせざるを得ないのか。
わたしの苦しみは瑣末なことなのか。


うつ病のパートナーを持つ人にお願いしたい。

『うつ病は、死の病である。』ということを。

インフルエンザで亡くなるよりも多い確率で死亡に至る病なのである。
もし相手を失いたくないのであるなら、聞いて受け止めてあげてほしい。
治そうとしなくていい。きっと治る。治る力が人にはある。
ただ、無視しないであげてほしいのだ。

       
『辛いよね、大丈夫?』


「こうすればいいんじゃないの? もっとこうしたら?」とアドバイスしてくれなくていい。
優しい言葉がほしい。
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いたわる心と寄り添う気持ちが欲しい。


言葉は減ることはない。

言葉には魂が宿る。
それを惜しみなく、パートナーに与えてあげて欲しい。

それが、「手当て」であり、何よりも有効な「薬」である。


わたしは前の週に続いてこの週もほとんど寝込んで泣いて過ごした。
いつも入院のことを考えた。
死んでしまってはいけない。その前に入院しなければ…。
しかしそれを考えまとめる力もそのときのわたしには無かった。

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一人じゃなくなる。

今日もちょっと本編に戻る気力が搾り出せません。
コメントにも返事が送れていてごめんなさいね。
更新されてなくても覗いていってくださる方がいてくれて嬉しいです。
ありがとうございます。

わたしは印刷会社に5年・看板サイン会社に2年・デザイン事務所に7年いました。

今回引き受けたデザイン関係の仕事をしていて、本当に仕事が好きだったなあと思います。すべて無駄がなかった。全て役に立っている。わたしは満足しました。


今日は、二年前にちょっとパートで勤めていた店に、印刷物の発注に行きました。
久しぶりにその駅で降り、階段を下りながら切ない気持ちになりました。

絶え間ない出血に苦しみながらの勤務でした。
付き合っていた人が、逮捕拘留から判決を経て受刑者となり、その店が新規開店した6月のあの雨の日に、その人は拘置所から刑務所に送られたのでした。

血を流し続ける体。足りない生活費。手術さえ危惧される体調。手紙のやり取りができなくなり、どの刑務所に送られたかわからない不安な日々…。

そんな中、通勤した駅でした。

沢山の人たちが支え、応援してくれていました。
Nさんも、その一人でした。
毎朝晩メールを交わしており、メールを読んでいて駅の階段を踏み外して落ちたことがありました。
痛みをこらえて歩きながら、落ちたことを告げると、Nさんからこんな返事が来ました。
「僕のせいでごめんね。責任取らなくちゃね。」


Nさんからは、なんども求婚をされています。
これもある意味そうだとも言えなくはありません。
その一年後、銀座の交差点で泣いていたわたしに彼はこんなメールを寄越しました。
「僕のところに来ませんか
。」

わたしは拒み続けていましたが、体と精神を壊し、刑務所の彼を捨て、Nさんの胸の中に崩れ落ちました。
彼はわたしを愛し、庇護し、守ってくれました。
わたしはこの人を失いたくないと心から思ったのでした。


その年の暮れに、わたしはNさんにプロポーズをねだりました。
何度も聞いていたプロポーズを改めてねだったのです。
そしてこう返事をしました。
「…はい。」

彼は全身で喜び、そして少し泣いてこう言いました。

「これでもう、一人で死ななくていいんだ…。」



久しぶりに歩いたその町は、店があちこち潰れており、昭和には有名な飲み屋街だったのですが、今はさびれる一方です。
それでも、わたしはそこに通っていた半年間を、切なく切なく思い出します。
Kouyou_harunasan_015  
桜並木の落ち葉が、美しい晩秋でした。

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すこし待ってくださいね。

V5_anim080_3  うつ村での2位はとても嬉しいです。
こればっかりは自分の力ではどうにもしようがないので、本当に来て下さっている皆さんのお陰様です。ありがとうございます。感謝いたしております。

コメントやメールも頂き、嬉しくてたまりません。
わたしのブログは、最初の頃ほとんどコメントをくださる方がありませんでした。寂しいものでした(笑) きっとコメントし辛い内容だったのだと思いますが…。


でも、開設当初からずっと欠かさず読んでくださっている方がいてくださっているのも存じております。ありがとうございます。繰り返し読んでくださっている方がいらっしゃるのも知っています。
誰かの心に届いたら・どなたかのヒントになればといつも思っています。
ですが実際は、みなさんのコメントやご訪問に励まされ、支えられ、こうして続けて来られました。


ひとりじゃない。見てくれる人がいる。感じてくれる人がいる。V4_anim046_4 

心からお礼を申し上げます


ここのところ、予定を詰め込みすぎ、家で休んでいられるのは週に2日くらいでした。
夕べ、久しぶりに
発作を起こし、頓服を飲んで休みました。
ずいぶん良くなったと思っていただけに、自分でショックでした。

フタをして、普段は見ていない
深い傷が、心にはたくさんあって、それが出現した時の対処がわからず、パニックを起こしてしまうようです。
夕べはNさんの家に泊まっていたので、彼がずっと髪を撫でてくれ、短時間でパニックは治まりましたが、これを抱えて生きて行くには
少しの覚悟が要ると感じました。


デザインの仕事をいただき、これからしばらく忙しくします。
12月末の復職に向けてやることも沢山あり、いますでにちょっと体調を崩し気味で、今日も夕方から寝込んで、さっき起きたところです。

たくさんのコメントありがとうございます。嬉しいです。
かならずお返事いたしますので、少しだけ待っててくださいね。



さんに育てていただいたこのブログを、大切にしていきたいと思っています。
これからもよろしくお願いいたします。


 A002ani_5
キャラ姫           

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墜落

※びっくりしました。うつ村で自分を探したら見当たらず、まさか…と思い上を見たら、2位でした。皆様本当にありがとうございます。


わたしが旅行に行っているあいだに、Nさんは何度もこの「銀の靴」を読んでくれていた。
翌日会った時に、彼はこう言ってくれた。

「ヒメから話で聞いていて、大変だったんだなあって思ってはいたけど、こうして本人が書いた真実の文章をしっかり読むと、どんなに辛かったか、苦しい中頑張ったかがよくわかるよ。」
そしてまた抱きしめてくれた。
「何にも知らなかったから、ごめんね。本当に辛かったね。よく頑張ったね。」
彼は読んでいて辛い場面も沢山あっただろう。しかしわたしの過去を全て受け止め、それごと抱きしめてくれた。

ところがわたしのうつ状態はここから加速度的に悪化する。

すこし頑張っただけで寝込み、常に両腕は鉛のごとく重く脱力し、背中は痛み、口のなかも苦かった。
そして「パソコンが臭い!」と思い始めた。
ONにすると臭くてたまらない。
修理センターに出して調べてもらうことにして、しばらくブログを休んだ。

一向に体調は戻らず、心の中には蒼い塊が居座っていた。その塊はとがっていて痛かった。重かった。冷たかった。
歩くことも辛く、精神科にもタクシーで通った。


けれども、思い体を引きずって、わたしはカウンセリングには出かけた。
遠い道程はきつかったが、前回のインテークで掘り返されたままの心は悲鳴をあげて救いを求めていた。わたしを立ち直らせるのはカウンセリングだと信じて、ヨロヨロと到着した。

カウンセラーに体調その他この1週間の様子などを聞かれる。
友達と旅行に行った事も話した。
「それは良かった。でも、今週は苦しそうだけど…正直に言って、旅行の最中、どんなことを考えてた?」
「…彼女は、大切な友達なので…大好きなので…【彼女を楽しませなくてはいけない】と、それが自分の役割であり、なおかつそれを悟られてはいけない。そう考えていました…。」
そうか、そう思っていたのかと、言葉のあとでわたしはやっと自分で納得した。

「それ以外に何か無理をしたことはなかったですか?」
「彼(Nさん)のお母さまに頼まれたことがあって…どうしてもやらなければいけないというムードではなかったのですが、お母さまの気持ちを考えたのと、彼の立場を考えて…ずっとやってなかった製作をやって…寝込みました。」
お母さまからは、人に差し上げたいものがあり、ヒメさんの手作りのものにしたいというご希望があったのだ。

わたしはNさんのために頑張った。誇らしげに「ほら、作ってくれたよ。」と言わせてあげたかった。お母さまにも、配った時に「まあすてき」と言われるよう、パッケージも素敵に仕上げた。

「今のあなたは、全てが他人の評価で生きていますね。それだと辛いでしょう。」
カウンセラーは優しくそう言った。
「うつ病は、真面目で、やりすぎてしまう人がなりやすいといわれます。あなたはほどほどという言葉を知っていますか?」
「知りません。」
わたしは即座に答えた。
「わたしにあるのは、ゼロか105%です。」

こうしてカウンセリングでは自分がどういう資質であるのかを、自分で認めていく。
そしてそれを治すのがカウンセリングの目的ではない。
「そういう自分を、認めて、受け止めるのです。そのときあなたは楽になれる。」

この日のわたしには、まだ理解には程遠い言葉であった。
そして更なる墜落は、わたしを待ち構えていたのだった。

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撫でる手と背中を押す手。

「どうしたの? 具合悪い?」
弁護士は心配してわたしのベッドのふちに腰掛けた。
「…4時まで、寝れなかった…。」
「ええ? そうなの? かわいそうに…。どうする? 起きてブッフェに行くなんて可能?」
わたしは首を振って無理と伝えた。
「じゃあ、あたし行ってくるよ。ぎりぎりまで寝てたら? 起こすから。」
「うん…。一人で、だいじょうぶ?」
観光ホテルの朝のブッフェで一人なんて申し訳ない。わたしが質問すると彼女は明るく言った。
「平気よ。アタシ、パンとコーヒーだけでいい人だから。じゃ行ってくるわね。」
彼女はドアを閉めて出て行った。
わたしはNさんにメールをすると、再び眠りに引きずり込まれた。

「ヒメー。起きられるかい? 眠れたー? そろそろ着替えて出ないといけないんだけど、延長させてもらう?」
わたしは眼を覚ました。彼女がわたしの脇にすわって体を撫でていてくれた。

姉もおらず、母に撫でられた記憶もないわたしには、彼女の細い手が心地よかった。
ずっと撫でていて欲しかった。
「今、何時?」
「もうすぐ11時だよ。」
えええ! ここチェックアウト11時だよね? やだ、間に合わない!
わたしは飛び起きた。本当にギリギリまで寝かせてくれたのだが、ちょっぴりギリギリすぎた。フロントから退室をやんわり促す電話が来てしまった。

鞄にとにかく突っ込んで部屋を出て、1階のカフェで朝食がわりのケーキを食べながら荷物を整理し、もちろんスッピンでわたしはホテルをあとにした。
まだ雨は強く降っていた。

2007_10090023 しっかり眠れたお陰でわたしは元気だった。
オルゴールミュージアムに行き、チーズショップでお土産を買い、ランチをとってから、わたしたちは帰途につくことにした。
Nさんからはひっきりなしにメールが来ており、渋滞情報から低気圧情報に至るまで送られてきて、まったく2.5人旅だった。
2007_10090024

今こうして思い出しながら書いていると、本当に楽しかったと思う。
その当時はわたしのうつ病はもっと重くて、「彼女を楽しませなくてはいけない」という使命感に駆られていたのも実は事実だ。


その後何度も二人で会ってお互いを知れば知るほど、わたしたちは不可欠な友人であると感じる。そのことを彼女は『二人互助会』と呼ぶ。今また彼女と旅行に行けば、さらにどんなに楽しいだろうと想像する。


彼女は、背中を押してくれる相手を必要としていた。
わたしは、それになることが出来た。

毎日の激務で微熱を出したまま何ヶ月か仕事を続けていた彼女から、夕方4時前にメールが来たことがあった。
彼女にとって療養中のわたしは、病院に行っているとき以外すぐに繋がる相手のはずだ。
『今ね、新宿で仕事が終わって、今日どうしてもっていう仕事はこれで終わりなの。事務所に戻ればやることはいくらでもある。戻って、仕事すべきだよね…?』
わたしはキーを打つ左手ももどかしく、ものすごい勢いで返信をした。
『おバカ! すぐにとっとと帰りなさい! 熱があるんだよ! 帰ってすぐさま寝なさいっ!』

返信が来た。
『ハイッ。せんせい、わかりました! 帰って寝ます。……ありがとう。』

わたしは、彼女の孤独を思って胸が詰まった。鎧を着て闘う弁護士の苦悩を思った。

そしてこのとき、わたしたちはようやく対等な友達になった。

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出ないで発作!

そおーっと寝室を出てドアをゆっくりと閉め、わたしはソファの肘掛に腰掛けて安定剤を飲んだ。

女二人旅。朝の10時に迎えに来てくれてから、片時も離れず夜中12時まで、ずっと喋り続けた。楽しかった。二人の距離が更に縮まり、信頼が増すのを感じた。幸せだった。

けれどもうつ病のわたしの脳は既に、沸騰していたのだ。
両腕には力が入らず、睡眠薬が体だけには効いていてフラフラだった。

眠りたい。明日も楽しい旅行を続けたい。
ここでパニック発作を起こせば、彼女がビックリする。楽しい旅行が台無しになる。
Nさんにも連絡が行って、彼のことだから車で飛んでくるに違いない。

事を起こしてはならない。パニックを起こしていけない、起こしたくない!
それこそが、パニック発作の引き金なのではないだろうか。


怖かったら叫ぶ。悲しかったら泣く。苦しかったら呻く。腹が立ったら怒る。
…こういった感情を押し殺しながら、頑張りすぎたわたしたち。
抑圧しすぎたわたしたち「うつ病患者」
常に完全であろうと必死になり、他人と争わず迎合し、微笑みながら涙をこぼして、わたしたちは生きてきた。
そうじゃないですか?

その【抑圧】と【極度の緊張】に耐え切れなくなったときに、パニック発作は起きる気がする。
スイッチは人により色々だと思われるが…。


わたしは、寝ているのを承知でNさんにメールをした。
軽い発作の時は、メールをしてそのことを訴えるだけで落ち着く時もある。
けれど、たいていが遅い時間なので、そんな時間に起きていることを咎められることが嫌で、大体は我慢をする。
メールに返事が来ることもある。内容は「大丈夫だよ。僕がついているよ。」にハートマークが付いた程度のものだが、それを読んで発作をやり過ごせたことが何度もあった。

この夜は返事はやってこなかった。
わたしは部屋の中をゆっくり歩いた。
ダイニングに座って観光案内を眺めたりした。
トイレに行ったりうがいをしたりもした。
脂汗は治まったが、動悸とざわつきはなかなか静まってくれなかった。

と、小一時間経ってからNさんが返信をくれた。
嬉しかった。安心した。
ソファに身を沈めながら、Nさんとメールのやり取りをした。
『朝までこのままメール付き合ってもいいよ。』
その優しい言葉を目にした直後、わたしは眠りに沈んだようだった。

気が付いた時は携帯を握ったままソファで丸くなっており、わたしはゆるゆるとベッドに移動して、やっと疲れ果てた体を横たえることができた。
パニック発作を起こさずに済んだ。
時間は4時を回っていた。

「ヒメー。もう8時だよ。おなかすいたー。ブッフェ行こうか。」
弁護士が優しく起こしに来てくれた時、わたしの意識は揺らいだ波の中に漂っていた。

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必要とされたい。

靴に履き替えて、お洒落なレストランに到着。
6時台の予約の人が多かったのか、食べ終わりそうな人がほとんどの中、キャンドルがきらめくテーブルに案内された。


2007_10090019_2 わたしは久々にグラスワインなどを飲んでみた。
前菜はこんな感じ。女性同士、またはカップル、母娘という客層だったので、これは喜ばれるだろう。
とてもおいしかった。


2007_10090020_2 メインはこのホテル自慢のステーキ。これもものすごく美味しかった。肉は「牛」だよねええ。わたしはとても上機嫌だった。

2007_10090021 デザートは繊細なデザイン。手を抜かない仕事に満足し、コーヒーを飲みながらゆっくり話をしていた。


「実はさあ…。」と彼女が意味ありげな切り出しをした。
これはかなりな話だなと察し、わたしは席を立たせて、部屋に戻ってゆっくり話すことにした。


部屋に戻り、着替えてはみたが、だだっ広い部屋のどこにいたらいいかわからず、わたしたちは三人掛けのソファに並んで座り、枕を抱いて話をした。
弁護士はうつ病患者のわたしに報告やら相談やらをした。


病気であることは、認め知っていてもらいたい。真綿にくるむように守ってももらいたいし、発作のときは抱きしめてほしい。
けれど、うつ病患者が何よりも求め、何よりも願っているのは、【誰かに必要とされる】ということなのだと、皆さんには知ってほしい。

頼りにされたり、頼まれたり、相談されたりしたいのだ。そして役に立てたときに生きている喜びを感じられるのだという事をどうか知ってほしい。

ただし、重荷になり過ぎない程度に…。
うつになる人は大体が生真面目で、105%やらないと自分を認められない人が多いのだから。

弁護士としてはとても優秀で、ものすごい量の仕事をこなしている彼女も、一人の女性になれば、果てしない方向音痴で、小心で、一人でデパートで買い物なんて出来ないような可愛い女性であるのだ。わたしは彼女がとてもいとおしかった。
だから、その彼女に当てにされたり、頼られたり、相談されたりすることを、わたしは生きる力の一つとしていて、時にはNさんとの予定よりも優先しては妬かれることもあった。


12時が過ぎ、わたしたちはベッドに入った。
明日のモーニングブッフェが楽しみで、わたしは薬を一式飲んでベッドに入ろうとした。
そのとき軽いパニックを起こした。
照明を何度も調整してまわり、ぐるぐる歩き回り、、ベッドの掛け布団をどうやったら気持ちよく入れるのかがわからなくて泣きたくなった。

彼女はベッドから降りてきて、わたしを寝かせ、掛け布団をうまく掛けてくれた。

「なるほど、ヒメは病気なんだねえ。普段なんともないのにねえ。」
そう呟いて彼女は静かになった。

けれど、もう遅かった。わたしの脳は沸騰してしまったのだ。
彼女には明日も運転してもらわなくてはならない。ゆっくり寝てもらわなくてはならない。
外は台風まがいの暴風雨で、時折建物が揺れた。

ベッドの中でわたしは硬直した。彼女を起こしてはいけない。
心臓がバクバクして、ねっとりと脂汗を出し始めた。

音を立てないようにそーっとベッドを抜け出した。効いている睡眠薬で体はしびれ、足元はふらついた。

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スイートルームの苦悩

スイートルームがどんな部屋なのかをわたしは知らなかった。
スイートな感じのルームか、ゴ
2007_10090016 ージャスなルームかぐらいににしか考えていなかった。案内された部屋は、ソファやりリラックスチェアのある広ーいリビングに、飲み放題と言うビールだジュースだがいっぱい入った冷蔵庫のついたダイニング、セミダブルのベッドが二つ並んだ寝室に、洗面ボウルの二つついた洗面所、なぜか曇りガラスで仕切られただけの2畳はあろうかというトイレ…。
2007_10090017_4
わたしは面食らった。ひ、広すぎる…。
どこにいればいいのかわからない。


わたしたちはとりあえず、ソファの脇の台に荷物を置いてさんざん部屋を歩き回った。
その間ももちろんひっきりなしに二人は喋っている。
疲れたので冷蔵庫からお茶を出してリビングで飲んだ。お酒を飲めない二人に取って(彼女は全く飲めず、わたしは止めている)飲み放題のビールが目に痛かった。

まずは大浴場に行こうかと、レデイースプランで借りた浴衣に着替えることにした。
彼女は黄色。わたしは似合わないピンク。

どこに靴を脱いで、どこに服をかけて、どこで荷物を引っ張り出せばいいのかわからない。クローゼットが3箇所、チェストが二ヶ所もあるのだ。どこに何をしまえばいいのか途方に暮れた。

とりあえず彼女と狭い台の上で鞄をお互い引っ掻き回しているのも変なので、わたしはチェストの上に荷物を移動した。
洋服は寝室のクローゼットを使うことにした。
ここまでの無駄な所要時間30分。彼女は忍耐強く、無駄に狼狽しむやみに動き回るわたしを待っていてくれた。

浴衣を彼女に着せてもらい、二人で大浴場に向かった。

体重計などどいうものが不親切においてあったが無視。

何種類もの浴槽があるのだが、わたしたちは体をそそくさと洗い、一番大きい浴槽にしばらく入って、そそくさと出てきた。
二人とも風呂が好きじゃないのだ。

再び浴衣を着せてもらい、お土産コーナーをちょっと冷やかして部屋にもどり、レストランに食事に行くために再び洋服を着た。浴衣の使用時間1時間弱。

ウロウロと動き回り、アレがない、これはなんだと騒ぎ、着替えにも化粧にも無駄な労力をつかってオタオタしているわたしを、彼女は気にするふうでもなく、待っていてくれた。
さあレストランで美味しい食事を!

「ねえ、あんたスリッパだよ?」

えーん。早く言ってよ~。
また部屋に戻り、靴を履いて、ようやくレストランに到着したときには、わたしの昼間の勇ましさは何処へやら。すっかりのうつ病患者だった。

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ナビはうつ患者

7月の半ば、わたしは弁護士と旅行を計画してあった。
実はこの年になるまで、わたしは女友達と旅行というものをしたことが一度もない。
高卒で就職し、実家から逃れるように結婚し、子供を一人産み、元夫の転勤で東京に来た。
就職仕立ての頃、大学に進学した友人から何度も旅行に誘われはしたが、わたしはその行程を想像するだけで憂鬱になり、もちろん親が許してくれそうもないのもあって、ことごとく断ってしまっていた。

この療養中に女二人旅をぜひ実現してみたかった。

弁護士に行きの車中で聞くと、はてさてと考えて、彼女も女二人旅というのは初めてだということだった。
なんだか、嬉しかった。
二人で行き先を決め、宿をネットで検索しながら決め、予約し、寄りたい店をピックアップし、計画しているときも楽しかった。

Nさんは地図をプリントアウトしてくれたり、割引券をプリントしてくれたり、渋滞情報を都度送ってきたりして、二人というよりは2.5人旅のようではあったが。

雨の中を彼女の運転する車はスタートした。

彼女は有名な国立大学を出て司法試験に受かって弁護士になった、いわば秀才である。
けれど、致命的に方向音痴だった。
優秀なナビも搭載されているが、優秀すぎて使いこなせていなかった。
「いいよ、わたしが指示するからさ、ナビの音消してよ。」
「ええっ? アンタこっち方面来た事無いって言ってたじゃん!」
「夕べ家で地図見て頭に入ってるからわかるよ。心配しないで運転してて。」

彼女の周りにはわたしのようなタイプの友達は居なかったらしい。
「道案内をしてくれる人と旅をするのって、なんて楽なんだー!」と感激した。
そうして、うつ病患者が弁護士を案内して、わたしたちは目的の観光地に到着した。
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東京よりも少し季節が遅くて、
 雨にぬれた紫陽花が美しかった。


けれど、わたしは実は前夜、初めての友達との旅行ということで緊張し、おなかは痛み、両腕は脱力し、寝つきも悪かった。
それと、それまでわたしはNさんにブログをやっていることを伝えないで内緒にしていた。
前の彼に必死に尽くすだけのわたしの姿を本人の文章で読むのは過酷ではないだろうかと懸念したからである。
この旅行でわたしがいない間に、ブログをじっくり読んでもらおう。それまでに、Nさんが登場する場面まで絶対に辿り着こうと、根を詰めて記事をUPした。
その疲れもあって万全の体調ではなかったが、弁護士とは止まることなくあらゆる話をし、とても楽しい道中であり、宿にも無事に着いた。
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大雨のなかの到着だった。
女性同士で泊まるに相応しい、きらびやかなホテルだった。


通されたのが、思いがけずスイートルームだった。

そしてわたしはそこで、うつの症状を思い切り発揮せざるを得なくなった。

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「もう無理」が言えなかった。

なにやら一般家庭のリビングのようなサロンが、カウンセリングルームだった。
わたしは、こんなに遠くまで一人で電車で来たのも久しぶりで、カウンセリングというものを受けるのも、カウンセラーという職業の人に会うのも初めてで、早めに駅に着いて余裕を持っていたにかかわらず、到着した途端におなかがキリキリとして早速トイレを借りた。

しかし、来れたということはすごいことだ。乗換えが怖いので、各駅停車に乗ったまま延々とやって来たのだが。
その駅は、以前とは全く様変わりしており、人がいっぱいいたのと、苦しかった3日間の撮影を思い出して少し苦しかったが、無事にカウンセリングルームに辿り着けた。

紅茶を出してくださり、一度会っただけのその人は正面に座った。
わたしは固くなって手が冷たくなっていた。

カウンセリングの初回は「インテーク」といい、問題を掘り起こす作業になる。
あらすじを話すと言ったほうがわかりやすいだろうか。

生い立ち、家族との関係、病歴、結婚と離婚、職歴、親しく付き合っている人のことなどの履歴を話す。

そのあと「きっかけ」を聞かれ、わたしは、当時付き合っていた人が、東京地検に逮捕され、それが二人で暮らすアパートの鍵をもらいに行く当日の朝であったこと・なぜ連絡が取れなくなったのかわからず、翌日の朝刊で、彼の逮捕を知ったこと・それからのありとあらゆる尽力と努力と困憊、体の異変、働けなくなったこと、彼への愛が冷め、救ってくれる人へ心を移したこと、そして発病…。そんなあらましをぽつぽつと話した。

カウンセラーはただ聞いてくれた。時々「ああ、それは辛かったでしょう。」と言葉を挟むだけで、ただ聞いてくれた。

「何が、どの部分が一番辛いですか? もしくは辛かったですか?」
わたしはしばらく考えた。
「…罪悪感…とか…振舞ってしまう自分とか…母を好きじゃない自分とか…。」

「でも、わたしには助けてくれる方がいっぱいいて、自己破産のせいで知り合った弁護士とも親しくさせていただいて、店のおかみにも、グループの仲間もいっぱい助けてくれて…。
だから…。」
涙がボトボトこぼれた。
「もう無理、もうやれないって、言い出せなかった。それがすごく苦しかったです…。」


わたしは大変な事件に巻き込まれながらも、助けてくれる人が沢山いてくれて、ほんとうに救われた。人は人をこんなに助けてくれるものなのかと驚いていたのだ。
だから、「もう無理。」が言えなかった。
「逃げたい。」が言えなかった。
体は警戒信号を発し続け、それを押して走り続けたわたしが壊したのは、精神だった。

「それは、辛かったですね…。」
カウンセラーはそう言って、しばらく泣かせてくれた。

相手の感情や反論を全く気にすることもなく、いつもの様に「振舞う」ことをする必要も無く、自分を主人公として話をする場所があるということは、素晴らしく効果のあることだとわたしは一回目で確信した。

しかし、初回はここまでで終わられてしまった。
不満げな表情を目に留めてカウンセラーはこう言った。
「今、掘り起こしてしまって、表面が荒れているので、辛いでしょう。」
言い当てられてわたしは頷いた。
「しばらく辛いと思うので、2~3回は続けて来たほうがいいと思いますが、来週はどうですか?」
そういうものかと納得し、それよりも何よりも自分が話を聞いてもらいたくて、早速翌週の予約をした。

カウンセリングは、エステよりも美容院よりも岩盤浴よりも、わたしには効果のありそうな癒しであり治療であると確信した。
わたしの喜びにもなった。必要なものだと悟った。

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ゴメンナサイ

うつ病村で4位になっていました。
コメントも沢山頂いてありがとうございます。m(_  _)m
しっかり読ませていただき、嬉しくてたまりません。
ほんとうに皆さんのおかげです。ありがとうございます。

ここ数日ちょっと調子が悪くてロクに起きていられません。
貴重なコメントにレスできなくてゴメンナサイ。

またすぐ戻ってきますので、待っててくださいね。

みなさんが少しでも楽になれますように祈ってます。

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      キャラ姫
                

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わたしのカウンセラー

どん底の時に連絡を入れ、予約したカウンセリングの日が来た。
体調の波は相変わらず短い周期で訪れており、1日頑張ると2日寝込むといった状態だった。

自宅から1時間半かけてその駅に降り立った。
そこは、わたしが東京に越して来た頃イトコが住んでいた町で、わたしは何度か訪れたことがあった。
また、編集社があり、そのスタジオで3日間の過酷な撮影に立ち会ったのも3年前のことだ。


カウンセラーとは、わたしが働く店で出会った。
ある雨の日、やや怪しいその店に、彼は恐る恐る入って来た。
お祝いのための「モニュメント」的なもので、海外に送れるものを探しているという要望だった。
送る相手との関係を尋ね、わたしは予算を推測し、最適だと思われるもの数点を選んでそれぞれの特徴や意味合いを説明した。
彼はよく話を聞き、他の店もちょっと見て来ます、と言って出て行った。

わたしは、彼は戻って来てこの店で買うと確信した。
なので、包装のための箱と、海外梱包用の箱やパッキンなどを先に用意をして、伝票も開いて、お戻りをお待ちした。

ほんの数十分で、彼は戻って来た。
「お帰りなさいませ、お待ちしておりました。」
そう言うと彼はキョトンとした顔で「えっ?」と問い返したので、わたしは正直に答えた。
「お客様は、お戻りくださるお客様だと、わかっておりました。」
彼は「ええ? そうですか? わかるんですか?」と照れながらも、先に説明をした品物の前につかつかと歩み、「では、これをください。海外用の梱包できますか?」と言った。
「ありがとうございます。こちらでしたら日本の伝統工芸品として胸を張れるお品でございます。海外用の梱包も既に準備してございます。」

梱包をしながら少し話をした。一般の人ではないと思い、職業を聞いてみた。
これは一種のタブーで、通常お客様にはご職業は尋ねない。
「心理カウンセラーをしています。」
わたしは思わず顔を上げた。
彼は、彼自身がうつ病になり、8年間苦しんだあと、これでは廃人になる!と一念発起し、薬を全ていきなり止めたのだそうだ。
そして想像を超える反動にのた打ち回りながら、カウンセラーになろうと決心したということだった。

梱包を終えて手渡しながら目が合うと、彼は「今日はプライベートだからこれしかないんですけど」と言いながら、わたしに少し汚れた名刺をくれた。
「必要でしたら連絡ください。」


そして今、彼のカウンセリングを受けるために来た。
見も知らぬカウンセラーを探すより、自身うつ病を体験したカウンセラーのほうが絶対にいいと思ったし、なによりも彼とは「縁」があって出会ったと考えたからだ。

階段を登ると、すりガラスのドアにカウンセリングルームの名前が貼ってあった。
わたしは未知の世界に初めて足を踏み入れていった。

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無駄はない。

2007_0707karuizawa0006 7月に入って、ようやくわたしの状態はやや落ち着く日が増えて来た。

わたしはオネダリをしてNさんに旅行に連れて行ってもらった。
妙義山経由、軽井沢・嬬恋である。

その前に、わたしは2年半も放置していたデジカメを引っ張り出してきた。
これが、Gさんの初公判で証言した、買ってもらったものの中で一番高価なものであった。
逮捕からわたしはクリエイティブ仕事は出来なくなり、カメラの出番はなくなって放置されてあった。

Nさんに、「デジカメはGさんに買っていただいたものなんだけど、あなたがもし嫌でなければ使いたいのだけど…」と聞いてみた。Nさんは、使えるものは使えばいいよと快く許してくれ、わたしはそのちょっと壊れたデジカメを旅行に持って行った。

久しぶりのカメラはとても楽しかった。
同じものを「あっ」と指差して、それぞれ違う視線で撮影する。
旅行が終わってから、PCでお互いの写真を見せ合い、これは上手いねとか、ああこんな風に撮ったんだとか言い合って、旅は終わった後も楽しいものなのだということを、わたしは生まれて初めて知った。

泥の舟に乗るつもりだったころは、ただ働いて借金を返すだけの人生になると考えていた。
それが、こうして旅行を楽しむことを教えてもらえた。
もちろん今も出かける度に二人はデジカメをそれぞれ持って出る。

その旅の終わりに、雲場池と旧軽井沢の裏道を、ゆっくり散歩した。
立ち止まって写真を撮り、しゃがんで小さな花を眺め、湿り気のあるひっそりとした空気を吸い、わたしはとても満たされた。

わたしたちは、そこで四つ葉のクローバーを発見した。
案内板を見ようと近づいて、その案内板の足元に、にゅうっと一本、四葉のクローバーがこちらを向いていた。
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わあっと声をあげて、わたしは摘み取った。

その葉っぱとは確かに目が合ったのだ。待っていてくれたのだ。

何にでも出会いとは存在する。
どんな出会いも偶然ではなく、学ぶ必要があって出会う。


わたしが、相手がどんな人だかも知らずにGさんに惚れたのも学びのための必然。
Nさんが遠くの席からうっとりとわたしを見つめ続けていたのも、魂の出会い。
自己破産のイチ顧客に過ぎなかったわたしを救い、今友達として密に付き合っている弁護士とも素晴らしい必然の出会い。
カウンセラーとも、気功の先生とも、薬局のみきちゃんとも、病気を縁として巡り会えた。

せっかくの出会いだから、大切にしよう。学んでいこう。愛していこう。
無駄なことなんて、きっとない。

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泥の舟

わたしはかつて、「泥の舟」という表現を何度か使った。
(昔話の「かちかち山」を知っている人はわかると思うが。)
「泥の舟」とは、もちろん浮かばないし進めない。崩れて沈み行くだけである。

逮捕された人を必死に守り、支え、身を削っていたころ、その人の友達から手紙を頂いたことがある。草野球の仲間だったのでわたしも面識があり、何度か一緒に飲んだこともあった。
その手紙には、友達として苦しんでいる彼の心情が書かれてあった。
果たして自分は彼の友達だったのだろうかと。
毎朝駅前のコーヒーショップで一緒にコーヒーを飲んでお互いの彼女のことを話し合った仲だったのに、本音をさらけだした付き合いは出来てなかったのではという後悔の念が綴られてあった。

わたしを保証人に仕立てるまでは、刑務所に行ったGさんは、弟に保証人を頼み断られ、その彼にも借金や保証人を要求していたらしく、それを受けられない彼は、朝のコーヒーショップに行かなくなったのだった。
「何もしてあげられなかった。どうしようもなかったのです。」と書かれていた。

当然のことと思う。
他人の連帯保証人になど絶対になってはいけない。
やむを得ずなるときは、自分が払う覚悟でなるしかない。
その彼は当然の選択をしたのだし、弟は家族を守るために兄を捨てた。わたしも切られた。それで仕方ないと思う。

友達からの手紙は、次にわたしのことに触れ、「Gさんは本当にあなたを愛していましたよ。」とあった。
「あなたが今Gさんのためにやっていることは、偉いです。すごく偉いです。女性の鑑です。そんなにあなたに尽くされてGさんは幸せ者です。」
そしてこう心配してくれてあった。
「けれどあなたは張り詰めすぎています。初公判のときも、判決のときも、私は傍聴し、あなたの姿を遠くから見ていました。とても声を掛けられる雰囲気は持ってませんでした。肩をいからせ肘を張り、目はつり上がって、ピリピリとしていて、触れたら割れてしまいそうでした。」

「お願いがあります。そんなに頑張らないでください。一日一日を自分のために大切に生きてください。その積み重ねで数年が過ぎ、Gさんが戻ってくる日がやって来る。どうか聴く耳を持ってください。このままだとあなたはもちません。自分を大事にしてください。」

わたしは、そのころは刑務所に面会に行き始め保護司との面談もうまく行き、体に鞭打って全速力で駆けていた頃だった。
聴く耳など持っていなかった。

わたしはこう返事を書いた。
「彼を救うのはわたしです。一生支えます。彼と乗る舟が例え‘泥の舟’であってもいいのです。わたしは彼と沈みます。それで本望です。」


しかしわたしは、泥の舟に彼を迎えるどころか、作り始める初期の段階で、苦しみに耐えかね、守ってくれる人のもとへ逃げ出した。
庇護され、存在を愛されることへの代え難い幸福感を、もう手放すことは出来ない。

今、Gさんへの未練はもちろん無い。けれど、「期待させておいて裏切る」という最低なことをやった、という自責は持ち続けている。
病気を言い訳にするのはたやすい。現にわたしは働ける状態ではなくなり、自分一人が生きていけなくなったのだから。

それでも、わたしの心の奥底に、作り得なかった「泥の舟」は存在し続ける。
押しやってしまってはいけない記憶として、わたしの中にいる誰かが抱えて持ってくれている。
その子は重そうに抱えている。
わたしは、どうしてやることが一番いいのかを、まだ見つけていない。

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失われゆく正気

その後6月ののわたしの精神状態はひどいものだった。
毎晩泣き、何かをやっては潰れ、出かけられたと思うと寝込み、よくまあこの体で年末からの五ヵ月半を働き通してきたなと感心した。

母からの電話に怯えることをしなくて良くなったのは、かなりなストレスの軽減となったが、次には、連絡をとっていないという事への罪悪感で苦しむようになった。
「調子のいい日があったら、電話してやってくれよ。」と父には言われたが、そんな気持ちになれる日が来るのかどうかも考えたくなかった。

Nさんに相談すると、「じゃあ時々ハガキを出せばどう?」と提案してくれた。
「手紙だと重いし、今の君はお母さんへの恨みを書きかねないから、ハガキで、どこへ出かけたとか何を食べたとか、そんな他愛のない話を書いて送ったら?」

わたしはそれはいいと同調し、和紙のハガキを買って来て、色鉛筆で季節の絵を描いて、簡単な文章を書いて、週一通くらい出すようになった。

けれども精神状態は相変わらず悪く、わたしは泣いて担当医に訴えた。
「あなたは波がありすぎる。普通のサイクルじゃない。」
そう言われたが、何が普通でどこからがおかしいのか、おかしくなっているわたしにはもう判断のつけようがない。こちらはうつ病の初心者なのだ。医者以外一体誰に頼ればいいのか。

担当医はしぶしぶ「デパケン」という薬を追加してくれた。気分調整薬で、今飲んでいる薬たちの総合プロデュースをしてくれるものであるという説明だった。

調べてみると、それは「てんかん」の薬だった。
何となく、わたしは更に落ち込んだ。
その後1週間、デパケンを足して薬を飲んでおとなしくしていたが、毎日辛くて悲しくて、具合も悪くて、最悪な状態だった。
手帳にも「辛い」という言葉しか残っていない。

ブログを書く、それ以外は廃人のようにわたしは天井を見つめていた。

あまりの苦しさに、次の診察日を待たずに病院に行って泣いた。
「辛いんです…。」
すると担当医はこう言ったのだ。
「何がそんなに辛いんですか! あなたは働いているときはそんな弱音を吐かなかった。辛いなら働けばいいでしょう。」

わたしは泣きながら反論した。
「何が、という明確な理由がなく辛いのがこの病気なのではないですか?」
「それはまあ、そうですけど…。」
「働いていたときは、最低限の薬で症状を押さえ込んでフタをして重石をしていただけで、それを治療だとわたしは思っていません。今やっと、本来の症状が出せたのです。これからが治療だとわたしは思っています。」

しかし必死の訴えにも、医師は薬の増量はしてくれなかった。

泣きながら病院を出て歩きながら、Nさんにメールをしたが、多忙な時期に疲れ果て熱を出して休んでいる彼からは、返信が無かった。
わたしは、大事に持ち歩いていたカウンセラーの名刺を取り出し、メールをしてカウンセリングをお願いした。

支えてくれる人は何人もいる。
けれど治すのは自分でしかないのだ。
医師も、彼氏も、それぞれの都合があり、気持ちがあり、わたし一人に関わってはいられない。
心をさらけ出す場所をお金で買う必要がある。
そのときのわたしは追い詰められていた。

正気でなくなる自分を想像すると恐ろしかった。
死んでしまうといけないから入院したほうがいい。どこに入院したらいいだろう。
その前に転院したほうがいいかもしれない。

既に正常な思考を失いながら、わたしは毎晩お風呂で泣いた。
薬を飲んでも寝付けない日々が続いた。
死んでしまってはいけない。なんとかしなくては…。

わたしは焦っていた。正気を失うことが恐ろしかった。

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四者会談

6月のわたしは、「具合が悪い・精神状態が悪い」のオンパレードであった。
泣かない日は無かったし、少し調子が悪いのに約束だからと出かけると、夜中に噴水のごとくお腹を壊した。

そんな中、Nさんの念願で、四者会談が実現した。
わたしを救ってくれた、友人♂と、弁護士と、Nさんとわたしというメンバーである。
形式的には、結婚するということを友人♂に報告し、刑務所にいるGさんの件では、ヒメが本当にお世話になったとお礼を言いたいという、Nさんの願いからであった。
友人♂は、そのあと個人的にも弁護士には依頼をしたりしており、実質弁護士とNさんが初対面という会合になった。

新橋で待ち合わせ、揃ったところで予約の店に向かう途中、弁護士はわたしの耳元で囁いた。
「なによアンタ、けっこういいオトコじゃん!」
そ、そうお?と答えながら、もちろん満更ではなかった。
彼女には、Gさんに会ってもらったり公判で見た結果、「アンタにはオトコを見る目がないっ! あれのどこがいいのだ!」とけなされていたので、Nさんのことは余りのろけず、いやあ普通の人だよ、と誤魔化していたのだ。
誉められて嬉しかった。まあ、彼女のオトコを見る目というのもなかなか怪しいのではあるが…。

個室の居酒屋に入ったが、その頃のわたしはうつ状態がひどく、メニューを見て何かを選ぶということが出来ない状況だった。多くの情報の中で理解をし選択をするということができなかったのである。Nさんと弁護士に適当に頼んでもらい、話はあちこち飛びながら、ようやくNさんは、わたしを救ってくれたお礼を二人に伝えた。
「いや、だって、ほっとけないでしょうあの場合。」照れて、友人♂はそう言った。
「コイツはね、何とかしてやらなきゃっていうオーラを出しまくる女なのよ。アタシも初対面でなんだかシンパシィを感じちゃって、今も付き合ってるけど、普通は客とは友達にはならないのよ。」と弁護士は言った。

いい人たちに守られて、わたしは自己破産をし、うつ病になる程度で済んだ。本当に感謝する。

ところが、友人♂とNさんが日本酒を何合か空けたあたりから、友人の雲行きが怪しくなってきた。
そしてNさんに絡みだした。
「いるんだよなあ、どこの世界にも。こうやって結果だけをかっさらって行っちゃうヤツがさあ!」

わたしは固まった。
Nさんは、笑ってやり過ごしてくれた。

ずっとわたしを救い、支え、助けて来てくれた友人。他に言い様がないから「友人」と記してきた。
彼は彼でひょっとすると苦しかったのかもしれない。
以前酔った時に一度だけわたしにこう言ったことがあったのを思い出した。
「俺は悪い奴にはなりたくない。欲しければ正々堂々と勝負をする。そして、負ける勝負はしない。」

Nさんが、ずっと以前からわたしの逃げ場所であったことを知らせていないため、友人はNさんがいきなり「結果=救われたわたし」をかっさらって行くのだと感じたのかもしれない。

わたしは黙るしかなかった。

友人はその次に「俺はGさんを見捨てない。頼ってきたら面倒を見る。」と公言し、わたしは逃げた自分の罪を突きつけられる気がして少し震えた。

そして次に弁護士に絡み始めた。
四者会談はそこでお開きとなった。


新橋の地下通路で、わたしはNさんに抱かれて大泣きした。
わたしも悲しかった。それよりも、一人一人に、申し訳なくてわたしは泣いた。

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誉められる娘

10月30日「ボロボロの羽」の続きです。
**********************

その夜、Nさんが遅くに実家のトイレから電話をして来た時には、彼は緊張が解けたのかベロベロに酔っており、話の要領は得なかったが、どうやら父との話し合いはうまく行き、父はきちんと理解をしてくれたようだった。

やっと安心して、留守録を聞いてみた。
「おらへんの? 心配しとるかと思て電話したんやけど…。まあ、そんならまた彼から話は聞き。ほなね。」
それだけの内容だった。
母からの電話だということだけでパニックを起こしてしまったわたしには、言葉が耳に入らなかったのだ。

この電話以来、母はわたしに電話してきてはいない。もう半年近くになる。

翌日Nさんは実家を早朝に出て、出張先に向かった。その車中ずっとメールを交わしていた。
母は最期まで、娘の「うつ病」を認めなかったということだった。
「更年期には誰だってなるんやから。」そう言い張って引かなかったとのことだった。
しかしわたしは更年期にはまだ早いし、婦人科で検査もして違うということは調べてある。
「更年期のうつ症状」と、「うつ病」とは、別のものである。もちろん、更年期にうつ症状となり、うつ病に移行する人もいるし、喪失のうつ症状が更年期障害をひどくすることだってある。
けれども、あくまで別のものであって、わたしは脳の病気なのであるということを、母にわかって欲しくてNさんに力説してもらったのに、母は認めようとはしなかった。

午後、父から電話がかかってきた。
留守録に「お父さんや。」と呼びかける声を聞いて、わたしは受話器を取った。
「Nくんから、よーく話は聞いたからな。男らしい、ええ人や。頼みますと言うといた。ありがたいことやな。」
父と話すのも久しぶりだった。涙が出た。
「お母さんにな、電話せんとほっとくように言うといた。物も送るなと言うといたからな。ゆっくり養生しいや。」
「うん…ごめんな。ありがとう。」
「でも、おまえなんでお母さんが苦手なんや?」
父と母は、とても仲のいい愛し合っている夫婦である。父はきっと辛いだろう。
「はっきり意識したのは、子供産んでからやの。子供って、もう無償に可愛いやん。些細なことが出来るようになっても、すごいなって嬉しいやん。こんな可愛い存在やのに、わたしはお母さんに誉められたことが一度もない。けなされてばっかりや。この間だって、離婚したことが恥ずかしいとか、肩身が狭いとか言われてすごい辛かった。」
父はその場にいたにもかかわらず、母がわたしにそう言って結婚に賛成しなかったことを覚えていなかった。
「そうかなあ、そんなこと言うてたかなあ。でもなあ、あの人はものすごくお前を心配してる人やで。ワシとは比べもんにならんくらい、心配してるで。それはわかってやり。」

わたしは聞いてみたかったことを父に聞いた。
「おとうさん。なんでわたし、誉めてもらえへんのやろ。お父さんにとってはどうなん? わたしは、恥ずかしい娘やの? 誉められるところが何にもない恥ずかしい娘やの?」
父は即座にこう言った。
「そんなことはない。そんなことは絶対にないよ。お母さんかてそのはずや。」

わたしは泣いた。

いつも「いい子でおってよ。」と言われ続けた。しっかりしてよ、家事もやってよ、早く帰ってきなさいよ、黙って出かけたらあかんよ、明るくしててよ、丈夫でおってよ、恥ずかしいことせんといてよ…
わたしは母の言葉の呪縛を受け、抑圧されて大人になった。
二十歳を過ぎても尚、過干渉を受け、友達の家にも泊まりに行けない抑制を受けていた。
逃れるには結婚して家を出るしかなかった。

そして身に合わない結婚をして、破綻した。

誉められる娘という立場をわたしはますます手に入れられなくなった。
帰省してもわたしへの待遇と息子(孫)への待遇には歴然たる差が見て取れた。
貧乏を理由に正月以外の帰省をやめた。

わたしは、まだ諦められない。
母に優しくされたい。感謝されたい。誉められたい。

けれど、原因とは全て自分にあるものだという事を、そのときはまだ考えも及ばず、わたしはインナーチャイルドを抱えてうつの波の中で泣いていた。

被害者意識に、がんじがらめになっていたのだった。

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医師の気概

まだ本編には戻らず、転院についてのお話しです。

**********************

先生はわたしが書いた薬のリストを見て怒っていました。
「あなたはこれを10mgしか飲んでないの!?」
うなずくと、先生は持っているペンで書類をバンバン叩きながら言いました。
「あなたにはパニック発作が付いている。つまりこれが主となる薬なの。それをこんな少量しか出さないなんておかしい!」
遠慮がちにわたしは口をはさみました。
「最初は、0.5だったんです…。途中で減らされたことも…。」
「なにい? こういう薬はね、一番最初に20とか30とかドカンと入れないと効かないんだよ!」
「は、はい…。かれこれ1年ですけど、治ったという感じは…」
「そりゃそうだ、治る訳がない! これじゃ効果が出ない! しかもこの組み合わせはなんだ!」

怖いよぅ…。
先生、わたしに怒られても…(T T)

「この薬とこっちの薬は、相性が悪いの! それにこれには依存性がある。これを何錠飲んでるの。」
「3錠…です。」
「3錠~?」
先生は頭を抱えました。
「なんてこった。なんでこんなことを…。僕らはね、絶対にこんなことはしない。これでは治せない!」
わたしはどうしたらいいのかわからなくて黙りました。

薬の少ないことで有名な、大学病院の担当医師。
けれど、不安定になって予約外に診察に行き、「辛いんです…」と泣きながら訴えたとき、「何がそんなに辛いんですか!」と言った医師でした。
「何が、というのではなく、意味なく理由なく辛くてたまらないのが、この病気なのではないですか?」
わたしは泣きながらやっとそう言ったことがありました。
「休んでいて辛いんなら、働けばいいじゃないですか!」

精神科医にそう言われて、わたしは、仕事先で知り合った、一度会ったきりのカウンセラーの名刺を取り出しました。

精神科医は、心は診てくれないのだ…。

Nさんは自分の体調不良と多忙な仕事で、わたしの訴えを受け止められませんでしました。
わたしは、カウンセリングを受けようと決心し、カウンセラーにメールをしたのでした。


今。目の前で怒っている院長は、確かに怖い。苦手なタイプで、わたしが慣れることができるのかどうか、まだわからない。
けれど、なぜ怒ってるのか。
わたしを治すために怒ってくれているのではないのだろうか?
ちらっとそんな考えがよぎった時に、先生はカルテをぶわっと開いてペンを走らせ始めました。

「イチから治療をやり直しますよ! この薬を増やして、こっちは1ヶ月かけて抜きます。3ヶ月くらいちょっと苦しいかもしれないけど我慢して。副作用が先に来るから。それから自律訓練法っていうのをやってるからそれを受けてもらいます!」

問答無用でした。

「あとは窓口で聞いて。来週また来れるね? 来なさいよ。」

追い立てられるように診察室を出ると、入れ違いに大きな旅行鞄を持った親子が入室しました。地方からこの先生を頼って飛行機で前日から来ているらしいのです。

「自律訓練法は、10日の土曜日に1名キャンセルが出たので、参加してください。13時から1時間程度です。」
優しい声で、受付のお姉さんも問答無用でした。


会計を済ませ、階下の薬局に薬を買いに行きました。
下町のオバチャンがやっている、明け透けな薬局でした。心療内科にかかってる患者さんばかりです。オバチャンたちは、とても親切であったかい人たちでした。

「先生、怖かった?」
初めて訪れて、まだ目が泳いでいるわたしを察して、オバチャンのうちの一人が声をかけてくれました。
「はい。怖かったです。」
オバチャンは笑いました。
「でもね、必ず治してくださるからね。土曜日なんて地方から来る人で行列が出来ちゃうのよ。だから、あなたは近くてラッキーよ。怖いけど、頑張って通いなさいな。」


わたしは覚悟を決めました。
治ってやろうじゃないの。

わたしは翌日保健所に出向き、障害者自立支援制度の、病院と薬局の変更を申請しました。
これでもう、逃げられない。
わたしは、転院をすることにしました。

きっとまだ、遅すぎるということはない。そう信じて行ってみます。
先生が有名だからではありません。
「病気のわたし」に怒った精神科医と、「方向の違う治療」に怒った医師。

わたしは後者を選びました。
患者には、医師を、病院を、選ぶ権利があります。
「治してやる!」という、院長の気概を、わたしは選択しました。

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次回より本編に戻りますね。


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ストレスへの耐性

(昨日の続きで、本編から外れています)

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ほぼなーんにもない駅前の、八百屋の向かいの薬局の2階に、ひっそりとその心療内科はありました。
そーっと階段を登って行くと…意外にも自動ドア。
入ると正面が受付で、優しそうな看護師さんが「こんにちは~。」と声を掛けてくれました。
ひとまず、ほっ。混み過ぎておらず空いてもいない。こぎれいな医院でありました。

初診は予約制なのですが、予約のとき、転院したいと正直に告げると、その病院からの紹介状を持ってきてくださいと言われ、それはとても出来ませんと断った経緯があり、前夜3時までかかって書いた既往症と薬の移り変わりの一覧を提出しました。

そのとき、カーテンで仕切られただけの診察室から怒声が漏れ、と言うよりカーテンですから丸聞こえなわけです。
わたしは固まりました。
この声の持ち主が、先生…?
院長一人でやっている医院ですから、他には先生は居ないはずです。

わたしは今、大きい男の人とか、大きな声とか罵声とか怒号とか、大きな物音とかが非常に苦手です。
お顔はHPで拝見していましたが、あのお声でナニカ質問されたら、わたしは涙ぐんでしまうかもしれない…。うーん、失敗したかなあ…。

わたしの前に診察されていた50代後半と思われる会社員ふうの男性は、「休んでたらいいじゃないですか、治るまで!」と怒鳴られており、小さな声で何かを訴えていましたが「死ぬより休むほうがいいでしょうが! 休んでいなさい!」と、また怒鳴られ、しょんぼりと待合室に戻って来ました。

予約時間どおりにわたしは呼ばれました。
恐る恐る、診察室に入ると、いきなり「これはお返しします!」と、わたしが書いてきた一覧表(A4サイズ5ページ)をつき返されました。エッ。読んでもらえないの…?
「コピー撮りましたから。これは返します。あとで読みます。で、ええと、なにがきっかけでそうなっちゃったの?」

わたしは固まったまま声が出ませんでした。
怖い。先生怒ってる…。

すると、怯えているのに気がついたのか、院長はぎょろりとわたしを覗き込みました。

こ、こわい…。目も怖いよぅ…。

わたしはポツポツと、恋人だった人が逮捕されてその後大変だったこと、体があちこち悪くなり、ここに至るまで2年半かかっているということをようやく伝えました。
「自己破産しちゃったの? そう。」(先生、それはそんなに重要では無かったポイントなんですケド)
「で、色々書いてある症状のうち、何が一番辛いの。」
…何がって…どれもほぼ平等に辛いんですけど…。
黙って考えているとまたギョロリとにらまれてしまいました。
「あの…あの…緊張が解けなくてリラックス出来ないことと、些細なことで恐怖を感じてしまうことです…。」
「ああそう。恐怖を感じるとどうなっちゃうの?」
わたしは発作が起きるときの場面や順序を話しました。
「はいわかった。じゃあね、簡単な心理テストをしてもらうから。おおい、パニックつけてー!」
先生はカーテンの向こうに声をかけると、出て行くようにと手を振りました。

待合室には書記台が別にあり、そこで心理テストを5種類やりました。
パニック付けて、と言われたのは、パニック発作のテストを追加するということでした。つけた丸の数を見て、わたしは「やっぱり」と思いました。そうだとは思っていたけれど、数字に表れると納得です。

提出してしばらくすると、今度はもう一つの、個室の診察室に呼ばれました。
そこは、いかにも心療内科らしく、ソファもあり、声も外に漏れず、少し恐怖も薄らぎました。
「ええとね、うつ病と、それにパニック発作がくっついてるね。でも、パニック障害じゃないからね。うつもそんなに重くない。私はね、長い経験があるから、この何種類かのテストを見ただけで、あなたの性格はわかるよ。詳しい説明は次回するけど、一つ説明してあげよう。ストレスに対する耐性。」
わたしの前にグラフが置かれました。グラフの、右上角の近くに鉛筆で丸がついていました。
「あなたはね、非常にストレスに弱いんだよ。これは、それがいけないと言っているんではないからね。いい悪いではなくて、そういう性質だということ。」
口調は相変わらず怖いけど、おっしゃっていることは無駄がなく、慈しみがありました。
「正常な人はね、ストレスを受けてもやり過ごせたり、発散できたり、寝て忘れられたりできる。でも、あなたにはそれができない。怒りを覚えても、それを表現することができない。深く溜め込んで溜め込んで、そして一気に壊れてしまう。そういう弱い人なの。これは、悪いという意味ではないからね。」

先生はグラフを指差しました。
「ここにいるのが、あなた。正常なひとは、こっち。」
正常な人は左の下の角。わたしは右上の角。
ステージはⅠからⅣまであり、わたしはⅣの中の上でした。
「こういう人はね、ストレスを跳ね返す力がないの。必ず体か精神が壊れるの。そうだったでしょ?」

気付いたらわたしはボロボロと泣いていました。

「しかも、なんだこの薬は!!」
先生はまた、怒り出しました。

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また続きます。読みに来てくださいませね♪

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転院という選択

いつもありがとうございます。
今日は本編を外れ、昨日のことを書きます。

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うつ病と診断されて1年近くが経ちます。発病してからはおそらく2年半くらいになっていると思われます。
療養しているおかげでストレスにさらされずに済んでおり、カウンセリング・氣功波動療法の効果と、そしてNさんの愛情により、かなり良くなって来た様に思います。
少なくとも毎晩必ず泣きながら寝ていたことが嘘のようです。

けれども、わたしは引っ掛かっていました。『うつ病の治療』という部分について。

カウンセリングは、病気である・ないに関わらず、自分を知り、あるがままを一旦認めて受け止めるという意味や、考え方の偏り・受け止め方の歪みを知るということで、自分を客観視することが出来るようになりました。
精神疾患ではない健常な方が受けても、非常に効果の高いものであると考えています。

また、氣功・波動療法は、なじみのない方には怪しいかもしれませんが、何も説明しなくても自分のからだの悪いところをピタリと言い当てられ、そこに「気」や「波動」を入れてもらって、体の本来の状態に戻してくれるものです。
その場で治してくれるものではありません。
あくまでも『戻してあげる』というのが院長の考え方です。

二人とも、「なんとかしてあげよう」という患者への思いが伝わって来る先生です。

では、主となるべき精神医学での治療は、どう効果が出ているのだろう。
行っても訴えても、サラッとカルテには記入するものの、「うーん、まあそういうこともあるでしょうねえ」としか言わない医師。1年近く経っても、減薬の話も出ず、月に2回ただ投薬を受ける為だけに通院しているような気がしていました。

わたしは12月に復職を控え、5月にはNさんのところに行きます。
そのハードな状況と激変する環境に、わたしの精神は耐えられるのだろうか。壊れてきたときに、精神科はわたしにどう作用するのだろうか。

カウンセリングは11月一杯と決めてカリキュラムを組んでやっています。自分の精神をどこまで高めていけるかはまだわかりませんが、カウンセラーには、経験を生かしてぜひカウンセラーになっては?と言われてもいます。

人を救うには、自分がある程度健全でなければ難しいと思います。
薬を飲んでいてもいい。たまに発作が出てもいい。
でも、寛解したと言える状態じゃないと、まだわたしは踏み出せない気がしています。
なれるかなれないのかはわかりませんが、カウンセラーの養成講座を受けることは、わたしの完治のためにはすごくプラスなんじゃないかと思います。

転院しようかと思う先は小さい心療内科でした。
今通っている大学病院とも近いです。
けれどわたしは、本来そこに行こうと考えていたのでした。
体の状態が余りにも悪くて大学病院を紹介され、そこで、婦人科→内科→耳鼻科→精神科と回されたので、そのまま通っていましたが、本来行くつもりだった心療内科に、やはり行ってみようかと思いました。
そんな風に考えていたものの、カウンセリングと氣功波動だけで治るのでは…と日送りしてしまっていたのです。

行くだけ行ってみよう。
どうも根本が治せていないような気がする。
そう思って、電話をして予約をし、昨日恐る恐る行ってみたのでした。

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長くなるので一旦切り上げます。
新しいアルバムを2個UPしたので、良かったら見てくださいね♪

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