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2007年10月

ボロボロの羽

5月末に、Nさんが単身実家に乗り込んでくれた。

大阪出張との絡め手であると言ってはあるが、目的はあくまでも、わたしのうつ病を告白し、理解してもらい、その上で母から電話が来ないように「工作」してもらうというものだった。

その頃のわたしは母への憎悪に満ち溢れていた。
過去を全て否定的に捉えてしまっていた。
小さい頃から優しくされたことなんてないと思い込んでいた。

Nさんとは様々に相談したが、断絶するならしてもいいと結論を出し、全て彼に委ねることにした。

本当は、父と仲良く酒を飲んで欲しかった。
Nさんは穏やかではあるが迎合する人ではない。
父は怒り出したら機関銃のような人である。
けれども、わたしは二人を信じた。
ともに、わたしを愛する男同士の対話である。うつ病のわたしを貰い受けるというNさんの言葉に、父が聴く耳を持たないはずは無いと信じた。

新幹線の車中、わたしとNさんはずっとメールを交わしていた。
彼も緊張していた。
実家の最寄り駅に着いてからは、寝る前までメールは出来ないと彼は言った。
わたしは祈る気持ちで彼を送り出した。

      
………………………………………………………

療養に入ってから、わたしは息子が喜ぶ手間の掛かる料理を作るよう心がけていた。
その日も働いている時なら作れないようなメニューを前に食べ始めたとき、自宅の電話が鳴った。

わたしは驚いて飛び上がった。もちろん、留守電になっているので出ない。
留守録が始まり、母の不機嫌な声が聞こえた。

何を言われているのかもうわからなかった。
どういうこと!?
今Nさんがまさに大事な話をしているはずなのに、途中で何で母が電話してくるの?
どうなっちゃったの?
どうして不機嫌なの?

わたしは箸を放り出して携帯を手に取った。
『母から電話が来たの! どうして? 大丈夫?』
彼からの返信は無い。
『お願い、返事ください。おかしくなりそうです!』

わたしはトイレに駆け込んだ。楽しいはずの夕飯も台無しだった。
見事にお腹は壊れた。
わたしは死ぬときはうつ病ではなく腸を患って死ぬだろうと思った。

30分ほどしてやっと彼からメールが届いた。
『大丈夫、何ともないよ。お父さんと楽しく飲んでいるよ。お母さんからの電話の件もお父さんがよしなにすると言ってくれたから。大丈夫。』


母は、父から「もう電話をするな」と言われる前に、2階からこっそりわたしに電話してきたのかもしれない。
けれどわたしはパニックになり、留守電に吹き込んでいる母の言葉は理解出来ず、速攻でお腹も壊れて、頼みの綱は彼だけだった。

彼は立派に、そして想像以上に使命を果たし、わたしを守ってくれたのだ。
彼の腕の中でボロボロの羽を休められる日は、確実にやって来ようとしていた。

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軌跡と願い

楽しみにしていた療養生活に入った2007年の5月。
わたしは具合の悪い日がほとんどだった。

症状を押さえ込んで無理やり仕事に行っていて、しかも週6日/一日8時間というハードな働き方をして、結局最後まで行くことが叶わず、力尽きてしまった悔恨は今も残っている。
その反動が、休みに入ってから出ることは覚悟をしてはいたが、何にしてもわたしはうつ病の初心者だった。波をやり過ごす方法も知らず、毎晩泣きながら寝た。

ウツの波は数日おきにやってきた。
土日にNさんに会ったあとには、必ず落ち込みのカーブがきっちりと出た。
彼の家に行っては緊張で錯乱し、余り親しくない人と会っては寝込み、自分の加減も限界もさっぱりわからず、失敗ばかり繰り返していた。

ゆっくり、のんびりするということをしたことが無い人生だったので、どう休んでいいのかもわからない。
だらだらとする、ということをわたしにはやったことがないので、どうしたらそう出来るのかがわからないのだ。
やる気が起きない。体は疲れでボロボロである。ならば心行くまで休めばよい。

けれど、わたしは、眠っているか、起きて何かしらあたふたやっているか、ウツの波に呑まれて泣いているか、どれかだった。


そんな中、わたしは【ブログ】というものの存在を知った。言葉として聞き知ってはいたが、わたしには縁のないものだと思い、もしくはそんなことをどうこう考えているヒマすらない数年だったのだ。
知人のHPを閲覧していると、彼の奥さんがココログというところでブログをやっており、リンクが張られていた。訪れてみると、明るい画面の中に日々の雑記が踊るように綴られていた。
わたしは【ブログ】というものを、今自分は生まれて初めてやれるような環境に居るのを悟った。

これ、わたしにも、出来る…?

試しに登録をして、テンプレートを選び、深く考えもせずタイトルを打ちこみ、記事を少し書いて投稿してみた。
ブルーグレーの画面が立ち上がり、たった今打ったわたしの文章が完成された一ページとなってUPされた。

わたしは感動した。

わたしには書きたいことがあった。伝えたいことがあった。それを誰かに読んでもらいたかった。ブログというものでそれをやることが出来るかもしれない…。
わたしはこっそりと記事を書き始めた。
誰にも教わらず、誰も頼らず、誰にも知らせず…。

………………………………………………………………

彼氏が逮捕されて突然目の前から居なくなったころ…。
わたしはあまりにも無知で世間知らずだった。
自分が騙されたとも思っていなかった。

拘置所に通い始めたころ。初公判のとき。求刑。判決。下獄。刑務所への面会、手紙。身元引受人。保護司。仮釈放。供託…。
わからないことばかりで、わたしはいつも途方に暮れていた。

それでも今こうしてここにいて、自死を選ぶこともなく幸せに生きていられるのは、助けてくれて救ってくれた人たちの力があるからだ。

今も、彼氏を逮捕され、どうしたいのか、どうすることがいいのかわからず、途方に暮れている人がきっと沢山いる。
人により選ぶ手段はいろいろある。
けれども、こういう道筋を辿った人もいるんだという事実と、塀の中のこと・それに関わっていくということがどういう事なのかを知って欲しかった。
どうしよう…と立ちすくんでいる人に。

結果、ブログはわたしの軌跡ともなり、うつ病の認知療法ともなり、あたらしい喜びと楽しみを与えてくれるものとなった。
やめていた写真を再開したのも、「みんなのようにブログに自分の撮った写真を載せたい!」という思いからなのである。

それはわたしとNさんのお出かけに、大きな共通の楽しみとなってくれた。
いつしか沢山の方が訪れてくださるブログに育てていただいた。
ブログを通じて知り合えた皆さんとの交流に、癒され励まされた。

………………………………………………………………

どうか、ほんの少しでいいから、どなたかのお役に立てますように…。
自分の軌跡として感慨深く眺めながらも、わたしは毎回そう願って書いている。
届きますように、と。

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渇望

わたしは基本的に自宅の電話には出ない。いつも留守電になっている。
それを聞いて必要があればこちらから意を決して掛ける。それぐらい、不意の電話は嫌いだった。

恐る恐る聞いた留守電は、わたしが居ない事を責めつつも、以外に優しい声であって驚いた。
「きれいなもん、ありがとうな。」

わたしは安心してその場にへたり込んだ。
この年になって、離れて暮らしていて、年に1~2回しか会わない母の顔色を、いまだに伺って一喜一憂する自分が情けなかった。


翌日覚悟を決めて、つとめて明るい声でわたしは実家に電話をした。
まずは昨日留守であったことを詫びる。
母は「電話かけてもいっつもおらへんなあ。」と言い(半分は居留守であるが)、プレゼントについては、こう言葉にした。
「あんなんもらっても、何に使うんかわからへん。」

わたしは、そこで墜ちてしまった。

期待したわたしが愚かだった。あんな綺麗なモンありがとうな。という言葉を今一度聞きたいと思ったわたしが馬鹿だった。

必死に奮い立たせて、月末にNさんが単身そちらに行くのでよろしく頼む、時間その他は本人から電話がいくので、と早口で言って電話を切った。
そしてわたしはトイレに駆け込んだ。

無理だ。もう耐えられない。
腹痛を噛み締めながら涙ぐんだ。
今思うと、母が悪いわけではない。そういう人なのだ。
わたしが母に愛され優しくされることを諦めきれないから、辛いのだ。
期待しなければもう裏切られることもない。

Nさんに報告すると、彼は、「来年からは僕が母の日のプレゼントを選んで僕の名前で送るから。もう、大丈夫だからね。」と言ってくれた。

そうしてもらおうと思う。それでわたしは逃げられる。解決ではないのが残念だが、Nさんの優しい心遣いに甘えることにしよう。

けれどわたしは、ジュエリーショップのショウケースを見るたびに、これなら母が喜んでくれるのではないかしらと未だに考える。
母を喜ばせる自分が欲しい。母を喜ばせたいと言うより、感謝され喜ばれる「自分」を渇望して止まないのだ。


母と、母の言葉は、呪縛である。
わたしは一体どうしたらそこから逃れて自分を解放してやれるのかを、まだ理解していない。
沢山本も読んだし、カウンセリングでも相談した。

今も呪縛は解けない。渇望も、止まない。

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赤い点滅

母の日のプレゼントは、前日の土曜日着にしておいた。
そうでないと、「今年は送って寄越さないんじゃないか」と母に疑われるからである。

何年か前に何かの都合で月曜着になってしまったときに、母に「ご近所には次々お花が届いて、いつも世話をしてやってる○○さんのお嬢さんがお花くれたりしたけど、たった一人の実の娘から届かないなんて、なんて情けない、薄情な娘だと思ってたとこよ。忘れてたんとちがうん?」と嫌味を言われたことがあり、それ以降は土曜着にしてきた。

その土曜日、Nさんはわたしが喜ぶであろう催事に連れ出してくれ、夜はレストランで、かなりゆっくり話をした。
考えてみれば、わたしが働いていると土日こそ休めず、サラリーマンである彼とは夜ちょこっと会うしかできず、電話をする元気もわたしには無く、久しぶりにゆっくり話が出来たのだ。


わたしは親に自分の病気について告白していなかった。
【怒られたくない】 
それが理由である。

風邪を引くと怒られ、怪我をしては怒られ、やがてわたしは具合が悪いことはいつも親には隠すような娘に成長した。
唯一、息子の出産のときはとてもよくして貰って、そのことには感謝している。
でもそれは病気ではない。
わたしが具合が悪くて寝ていることを、母はひどく嫌って怒った。
学校から帰って来て横になっていても、母が帰ってくる気配を察すると、わたしは無理に起きてなんでもないフリをした。

思春期のわたしは、低血圧と貧血、起立性低血圧症・自律神経失調症で、いつも具合が悪かった。根を詰めて何かに没頭すると、そのあとパニック発作を起こしては保健室送りになっていた。
学校からの電話で知った母は、それを自分で治せと叱咤した。
17歳のわたしにはその方法がわからず、その後も保健室の常連であったことなどは口が裂けても言えなかった。


【うつ病】です、なんて言ったら…
わたしは一体どんな罵声を浴びせられるんだろう…?

「しっかりしてへんからや! 私のほうがよっぽど辛い経験してるわ! 弱虫!」
そう言われるのはわかりきっている…少なくとも、わたしの頭の中にある母は、そう怒るはずなのだ。それを言われたら、うつ病のわたしは、恐らくは再起不能になる。それが怖かった。

精神の病に対しても、ひどく偏見を持っているに違いなかった。ある国や、ある地方の人にひどく偏見を持った親なのである。離婚しただけでも恥ずかしいのに、その娘が【うつ病】だなんて、彼女には決して受け入れがたい・認めてはいけない事実に違いない。

Nさんは、自分が一人でわたしの実家に行って、父と話してくると言ってくれた。
結婚の話を正式に彼の口から伝え、その上でわたしの病気について説明してくる。
すべてわかった上で結婚を望んでいるのだと言えば、お母さんと言えども何も口出しは出来ないだろう、ということだった。
わたしは彼に全てを任せた。
これで実家と絶縁になっても仕方が無い。父には悪いし悲しいが、そうしないとわたしの精神は耐えられない。

【うつ病】というものが、気が弱いからとか、だらしないからとかでなる病気ではなく、また、気の持ちようで治るものでもない脳の病気であるということが、はっきり書かれている文献をプリントして持って行って見せてほしいと頼み、更に、母からもうわたしには電話が来ないよう何とか父にうまく伝えてほしいという難題を、Nさんに背負ってもらった。

帰宅すると留守電の赤い光が点滅していた。
母からである。
わたしは覚悟を決めて、暗い部屋に点滅するボタンを押した。

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憧れの療養生活。

ゴールデンウィーク明けに、わたしは最後の出勤をした。
前夜おかみから、確認の電話があった。
その微妙なニュアンスには、わたしへの微かな失望があるように感じられた。

頑張りたかった。でも、潰れてしまった。
自分がとても悔しくて情けなくてたまらなかった。

出勤すると、想像したとおり、店の片付けは殆ど終わってしまっており、わたしがやるべきことはもう何もなかった。
自分が管理すべきPOPやカタログやサンプル、ディスプレー品を箱に入れて仕舞うと、もうすることはなかった。

お情けで、来させてくれたんだなあとわかった。
倒れてそのままでは、お互い後味が悪い。荷物もある。それで電話をくれて、「明日、いらっしゃれるかしらね?」と微妙な聞き方をおかみがしたのだ。

いつも中華料理の店で結構派手に行われる慰労会も、もう終わってしまっていた。
「今回はいつもと違ってすごいコースを頼んでくれたんだよ。イセエビとかフカヒレとか食べちゃったよ。」と、一番の古株さんが耳打ちしてくれた。
そう、残念だったわ。と答えながら、吹き荒む寂寥感に耐え、わたしは所在無く掃除をしていた。

そしてわたしは、待ち望んでいた【療養生活】に突入した。

あれほど楽しみにし、焦がれるように待っていた【療養生活】…
しかし初日に、わたしは墜ちてしまった。
たまらない寂しさとザワつきと身の置き所のない不安感に、布団の上で一人で悶絶した。
どうしたらいいのかわからなかった。

休まずに最後まで行けたなら…こんな風にはならなかったはずなのに。
フカヒレじゃなくてもいいけど、シーズンをともに頑張ってきた店のみんなと、こうだったね・ああだったねと言いながら食事をして、「もう食えねーよー!」なんてガラの悪い言葉を使って笑いあいたかった。

悲しくて切なくて寂しくて、わたしは女友達と弁護士にメールして訴えた。
二人とも理解をしてくれ、わたしのささくれた心を慰めてくれ、さらに弁護士は「あんなに貢献してるのになんじゃその処遇は!」と憤慨してくれた。(彼女は今現在も怒っている。)

墜ちて3日め、わたしは精神科に行って泣きながら辛さを訴えた。
それまでは、ただ症状を抑えてくれればいい・薬を変えたり足したりして精神が変調するのが怖いという理由で、パキシルとデパスとハルシオンで凌いできた。ようやく薬を変更しても構わない【療養生活】に入ったのだ。
増やしたり足したり上乗せしてわたしを救って!

担当医は、レスリンという薬を足してくれた。
ざわつくときには、デパスを飲んでやり過ごすように、さらにひどい不安時や発作の時には、コンスタンを頓服として飲むように増やしてくれた。

こうして、2007年の5月、わたしの人生ではじめての休暇がスタートした。

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P.S/新しいアルバムを作りました。良かったら見てくださいね♪

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力尽きた。

そういう困った体調を自分でどうすることもできず、精神科医も手を差し伸べてくれることなく、わたしは、ゴールデンウィーク明けからの【療養生活】を励みに、ただただ必死に店に行った。
幸い売り上げは好調で、このまま突っ走ってボロボロになるまで働いて、倒れこむように療養に入る、ということを支えに、日々の体の苦しさに耐えた。

療養に入ったら、まずは数日間死んだように眠って、薬を変えてもらって、待っていてくれる友達にも会って、ゆっくり買い物に行ったり本を読んだり、ゲームをしたり音楽を聞いたり凝った料理をしたりして過ごそう。
生まれて初めてもらった【人生の休暇】を、ゆったり過ごそう。

それを楽しみに本当に頑張った。

しかし、頑張りすぎて、わたしは手前で、力尽きてしまった。


毎週木曜日を公休にさせてもらっていたので、ゴールデンウィークの中の木曜も、休みにさせてもらった。本来なら土日や祝日に休むなんてとんでもないのだが、疲れていたしその日は足りるほど店員がいたので休むことににしたのだった。

わたしはNさんと久しぶりに昼間から会った。
文化村でやっているモディリアーニ展を見に行き、そのあと東急百貨店で、扇子を買ってもらった。
で、ふと思いついて、少し早いが「母の日」のプレゼントも今買ってデパートから送ってもらおうと思いついた。

母の日は、わたしに取っては恐怖と恨みの日である。

小さい頃、拙い手作りであげたプレゼントは、ことごとく翌日ゴミ箱に悠然と捨てられているのを見た。
その傷が癒えず、中高生の時は一切何もしなかった。

働くようになって自分の収入が出来たが、わたしが使えるのは月2万円と決められてしまっていた。だから、大したものは買えない。
わたしはレリーフ模様のマグカップを買って渡した。母は黙ってそれを開け、フンと言って食器棚にしまった。捨てられないだけマシだった。

数日後、家事のことで揉めたときに母がこう言った。
「そういえば、アンタ母の日のプレゼントもなんにもくれんね! よその子はみんなしてるで!」
わたしは唖然とした。受け取ったではないか。食器棚の、ここに間然と並んでいるではないか。
「したわよ! マグカップあげたじゃない!」

今度は母が唖然とした顔を見せた。
「あんた、あんなモンでごまかすつもりか!?」


以来わたしは、意地になって母に日のプレゼントを送り続けている。
どんなに貧乏で苦しくても、どんなに安物でも、送り続けた。
母が喜んだのはたった一度きり。問屋で買った2900円の夏物のバッグは、たまたまお気に召したらしく、旅行に行くときに使ったと言っていた。
その一度以外はどんなものを送っても、喜んでもらえた記憶は無い。
こんなんいらんから、アンタ持って帰りや、と言われたことすらあった。


Nさんに付き合ってもらってデパートを見た。いかに苦痛に感じているかを聞いてもらった。彼はわたしを気遣い一般的な意見を言った。
「そんなにヒメが辛いなら、贈らなければいいよ。」
わたしは彼の思いやりにすら猛然と反論した。
「贈ることはすごく辛い。苦しい。でもね、贈らないことはもっと苦しくて耐えられないのよ!」

わたしは、迷った挙句、本漆ではないが、カシュー塗りで内側がベルベット張りの小箱を買った。
桜の金彩模様がうっとりするほど美しかった。この間父にダイヤのペンダントを買ってもらったと言っていたから、それをしまえばきっと見栄えがする…。

直送すべく伝票を書く段になったら、わたしは疲労の余り立っていられなくなり、座らせてもらって住所を書いた。

買い物を終えて外に出た時、わたしはガクガクになっていて、Nさんにすがらないと歩けなかった。それほど辛い買い物だった。


その翌朝、明け方4時に、わたしは急激な吐き気と腹痛で目を覚ました。
まだ睡眠薬もその他大勢の薬も効いていて、本来なら仮死状態で眠っている時間である。地震が来ても起きられないのが常なのである。

這うようにトイレに行き、戻してしまった。
その後は悶絶する腹痛に襲われ、トイレの中で呻きながら転がった。
噴出した汗で床は濡れ、自分も雨に降られたようになった。

上からも下からも出せるだけ出して、6時ごろやっと沈静した。
わたしはよろよろとシャワーを浴びて、着替えて、倒れこんだ。
世間のゴールデンウィークを、わたしはそのまま寝込んで過ごすことになってしまった。


「よくやった!」と自分を誉めてやるはずの、店の最後の入れ替えに、わたしは行けなかった。

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「カタコト」?

変な症状のうち、三大困ったさんは、

①朝から午前中の記憶が無いか、あってもまだらで、前後関係がわからない
…これは、朝店に到着してやっと目が覚めるような状態なのに加えて、しっかりと接客をしてはいるのだが、その記憶が無いかマダラだということだ。例えば午後になって買いに戻って来てくださったお客様の、顔はわかるがいつ来てくださった人なのかがわからないのだ。
先日はどうもありがとうございます、と言ったら、「あらやだ、今朝見に来て、戻って来たのよ?」と言われたり、またはその逆の、先ほどはどうも、と言ってみたら、「先週見に来たのよ?」なんていうこともあった。
おかみに、「さっきのお客さんは、何を見にいらしたの?」と聞かれても、「えっ? お客さんなんて来ましたっけ?」ぐらいひどいのだ。
記憶を武器にして、戻ってきたお客さんは絶対に逃がさない自信があっただけに、こんな自分になってしまったことのダメージは大きかった。

②午後になると、両腕が使えない。
…脳がやっと覚醒しだす午後になると、両腕が、重くなって抜けそうになる。もちろん抜こうったって抜きようもないのだが、痛いとか痺れるとかではなく、例えようもなく重い、というか…やっぱり「抜けそうに重い」が一番近い日本語だ。
商品を持ち上げるどころか、字を書く手も震え、帰りの電車では自分の鞄を持っていられず、床に置いて足で挟んで帰った。

③夕方になると、カタコトになる。
…江戸の伝統工芸品を売っているのに、関西弁もそぐわないから我慢しているが、カタコトはもっとヤバイ。4時くらいになると、おとがいが動かなくなり、カタコトの日本語みたいな喋りしかできなくなってしまう。頭のなかに言葉はいっぱい出てきているのに、うまく発音できない。
説明が命なのに、4時を過ぎるとわたしはカミまくった。


やはり、手術のあとは、体力がかなりキツかった。
接客するだけがやっとで、客の居ないときにはアゴを休ませたくて一人で店の端っこに座ってスイッチを切っていたいところなのだが、おかみや他の人たちが、気を遣って色々話しかけて来てくれる。
喋りたくないとは言えず、ちょっと困った。

三つの症状は、精神科の担当医にも訴えたが、薬の副作用かもしれないということで、主力のパキシルを半分に減らされた。
3日でわたしは荒れまくった。あわてて2錠に戻し、翌週また行って薬をもらう羽目になった。

その後読んだ本で、①はウツ病及び精神疾患にはよく現れる症状であること、②は、「非定型うつ病」とも呼ばれる型のウツ症状の典型であるとも知った。

③のカタコトは…
疲れると、わたしの「潜在ちゃん」(←当時はまだその存在を知らないでいたのだが)が、もう喋るのやだー、とサインを送って来ていたのだろう。と今は思う。

ちなみに、療養生活に入って半年経つが、この三つの症状は、軽くはなったが無くなってはいない。薬では治せないということだ。

で、12月に復職したらわたしはまた、夕方カタコトになる。

…おそらく(笑)

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青い帯

その夜、久しぶりに湯船に浸かった。
この2日シャワーだけでは寒かったのだが、明日からの復帰に備えて熟睡できるよう、寝る前にお風呂に入った。

湯船に浸かって、足を浴槽の縁にあげて、ふと気が付いた。
なんだこれ…。

両足の甲に、くっきりと幅4cmくらいの青い帯があるのだ。

内出血?

わたしは婦人科の診察台を思った。
足を差し入れる部分を考えた。
それだ…。

途端に悲しくなってわたしは風呂のなかで泣いた。


麻酔をかけられたのは、【脳】なのだ。
脳が痛みを感じないように操作されたにすぎないのだ。
意識のないうえでの処置に、体は必死に耐えていたに違いない。

力んだのか、暴れようとしたのか、踏ん張っていたのかはわからない。
ただ、わたしの知らないところで体は必死に耐えていたのだ。
切なくて不憫で、リラックスするためのお風呂は、涙をかき消すためのものに変わってしまった。


術後4日目に仕事に復帰した。
季節の変わり目で、店内の商品を入れ替える一週間である。
つまり、お客さんが来なくて、椅子に座って気を抜くヒマもなく、立ち仕事・力仕事・階段の上り下りの多い期間なのだ。
一日目は、蒼ざめた顔をしているわたしを気遣って、みんな時々休ませてくれたし、力仕事もやってくれた。
けれども毎日そう甘えるわけにもいかない。
出血は少なくなったが止まることはなく、立っているとお腹が痛むのが辛かった。

自分の担当フロアになると、主となってレイアウトを考えるのはわたしになる。
痛いの痒いの言っている暇は無かった。
6日間をかけて店の入れ替えは完了し、小さな達成感を胸に公休を迎えた。
よく頑張れた。自分を誉めた。

けれど、足の甲の「青い帯」は、なかなか消えることが無かった。
それを見るたびに切なくて、わたしは毎晩お風呂で少し泣いた。


この手術が響いたのか、それともそれとは関係なく、フタをしてある病気が溢れそうになったのか、わたしは体調に異変を感じ始めるようになった。
どうにも辛くて休んでしまった翌日、精神科で説明をすると、
「あきらかに過労。時間を短くするとか、週2日休むとかはできないの?」と担当医に聞かれた。
「できません。このまま5月まで働きます。どうしたらいいですか。」
医師は困った顔をした。
「じゃあ、ユンケル飲んでやり過ごすしかないね。」
「ユンケルが、いいですか。」
「ユンケルがいいです。」
少し笑った。

わたしは毎朝ユンケルを飲んで出勤した。
けれども、徐々に変な症状が出始めてきてしまった。

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心を救うもの。

点滴の管の途中から麻酔薬が入れられ、わたしはスッと意識を失った。

意識が戻って頭をうごかすと、モヤの向こうで主任さんの声がした。
「終わったわよ。大丈夫よ。もう少し寝ていてね。」
わたしは再び眠りに堕ちた。

次に目覚めたときには、モヤは晴れてはいたが、声もうまく出ず、体もままならなかった。
わたしはゆっくりと起こされ、診察台に座り、そこから二人に両脇を抱えられて婦人科の処置室に戻った。

ザンバラの髪、胸元がはだけそうな衣服。
わたしは、江戸時代の罪人が刑場に引っ立てられていく姿を思い起こした。
見たことなどないはずなのに、思い出した。

あらためて、この姿をNさんに見せなくて良かったと実感した。

ベッドに戻ると、カラカラの喉に耐えかねて、「何か飲んでいいですか?」と聞くと、主任さんはわたしから離れず、持参していたペットボトルの水を飲み終わるまでじっと見つめていた。
見届けると安心して、「じゃあ、あと1時間か1時間半くらい休んだら帰っていいわよ。」と言い残して、仕事に戻って行った。

主任さんには心を救ってもらった。
医療とはこうであってほしい。わたしは今も感謝している。

もう涙も枯れ、喪失した下腹には代わりに鈍痛が訪れており、わたしは何をするでもなく、ベッドに横たわっていた。

痛みは、時に人の心を救うのではないかと考えた。
これが痛みのない空洞であったならば、その喪失感に心は耐えられるだろうか。
痛みに気を取られているあいだに、心は守られ、壊れるのを防御されているのかもしれないと、ぼんやり思ったりした。

小一時間休んで、わたしは着替えて主任さんにお礼をいうと、支払いをし、薬局に寄ってからタクシーで帰宅した。
夕方までウトウトとし、息子が買ってきたお弁当を食べ、また泥のように眠った。

翌日タクシーを使って消毒に行った以外はZZzz…の記録しかない。
最後の休みの日は精神科の診察日だった。
11時の予約だったが、わたしは早く家を出て予約をしていない婦人科に先に行った。
落合先生に会いたかったのだ。

すぐに呼ばれて、診察室に入った。
「お騒がせしてすみませんでした。」わたしが頭を下げると、先生はニッコリとして、
「いえいえ、どうですか具合は。」と聞いてくださった。
痛みが全く弱まっていないことを告げると、「じゃあちょっと診てみましょう。」と、超音波で診てくださった。
「大丈夫ですよ。順調に回復しています。出血もあと2~3日だと思います。心配ないですよ。」
やさしい口調で言われ、わたしはとても嬉しかった。主任さんにとても良くしていただいたことも話し、わたしは深々と一礼して婦人科を後にした。

精神科で、担当医に、今回のことをカミングアウトした。叱られるかとビクビクしながら話したが、医師は「その事柄自体は、世間ではよくあることというふうに考えて、今は、あまり思い悩まないようにしましょう。」と言ってくれた。

会計のあと、領収書の内訳を見ると、婦人科の請求はゼロ円だった。

落合先生は、わたしが先生に会いに行ったのだということを、わかっていたのだ。
まさに、心を診てくださる医師であった。

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厳戒態勢

わたしが診察台に上がっている間にその日の婦人科の診察は開始した。
わりと朝9時ピッタリにいつも開始される科だった。
落合先生が患者さんを呼ぶ優しい声を聞いた。
だから落合先生はいらっしゃるのに、わたしを診てくれなかったのだと、わたしは考えたのだ。

いい子じゃないから見捨てられた。

インナーチャイルドを抱え持つわたしの思考にはそういう構造があった。
これは今だから言えることであって、うつ病の初心者であり、ただこれ以上進行しないよう薬を飲んでフタを閉め、メタクソに働いているだけの当時のわたしは、意味も理由もわからず、突然起きた錯乱状態に、その抑え方もわからなかった。

騒ぎを聞きつけて、落合先生は自分の診察室から来てくれたのだ。

「どうした?」という医長の問いに答えられる人はおらず、しかし先生はわたしの顔だかカルテだかを見て、「ああ…。」というため息交じりの声を洩らした。

泣き喚いているのが自分の担当患者で、今日が手術の日であることを思い出し、わたしが泣いていることを、うつ病と関連付けてそれなりに納得されたのだろうと思う。
誰かに何かを小声で指示している様子があった。

そして、落合先生はわたしの前に立ち、無言で、
頭を
「よしよし」と撫でてくれたのである。

幼い頃、父がよくそうしてくれたように…。

わたしは、安堵感と切なさで一層泣いた。
先生は怒ってない。見捨てたわけではないのだきっと…。


診察台に再び寝かされ、血圧計を巻かれ、主任看護師が脈を取った。
相当な興奮状態にあるわたしを彼女は優しくなだめ続けた。

10分…15分…。やっとわたしの硬直が解けはじめたのを見て、彼女は質問した。
今日一人で来たのか・迎えに来る人はいるのか・自宅に誰かいるのかと。
予定だと、このあと一旦家に帰って、1時半にまたここへ戻ってくることになっている。
まだ全身は痺れ、涙は溢れており、声はかすれていた。

昨日からお腹の張りと軽い出血もあり、今薬を入れたことでひょっとして子宮口が開いてしまうのではないかとも思い、まずそれを聞いてみた。
「長くここで勤めてるけど、そんなふうになった人はいなかったわよ。でも、おうちに帰っても一人なの? 心配?」
「…わたし、うつ病なんです…。こちらの、精神科に掛かっているんです…。」
途切れ途切れにそう言うと、担当医を聞かれ、主任さんはわたしの顔を覗き込んだ。
「じゃあ、内科の処置室のベッド確保してくるから、帰らないでそこに居る?」
わたしは頷いた。
初めての錯乱に自分が動揺し、一人で一人の家に帰って、またタクシーを拾える道路まで出て病院に戻ってくる気力はもう無かった。

主任さんはすぐ隣の内科の処置室のベッドを確保してきてくれ、わたしはそちらに移動した。
「見にくるからね。大丈夫よ。」と笑顔を見せて、主任さんは婦人科に戻って行った。

貴重な時間を割かせてしまい申し訳なかった。

内科のベッドで、わたしはそのあと2時間くらい泣いていた。
それは、この子に対する申し訳なさと、失う切なさの涙だった。

何回も主任さんが、「だいじょうぶ~?」と覗きに来てくれた。
内科の看護師さんもこっそり様子を伺っていてくれた。
慈愛に満ちた監視下のもと、病院は午後になった。


わたしは呼ばれて婦人科の処置室に戻り、そこで手術着を渡された。
前にずらりとスナップのついた服で、驚いたことに、袖を含めて前身ごろと後ろ身ごろもスナップ止めになっている。つまり、何か起きたら瞬時に前面を素っ裸に出来る構造なのだ。

舞台衣装の、早変わりってのも、こんな感じなのかねえと、考えるだけの余裕が戻って来ていた。

診察台(兼掻爬室)に行くと、手術をしてくれる医師のほかに、看護師が4人わたしを取り囲んだ。

厳戒態勢だなこりゃ…。
あきらめてわたしは台に上がった。


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錯乱

車の中で、何を話したのか、何も話さなかったのか、わたしは覚えていない。

レストランに入って書類を見せながら説明した。
朝診察開始前に行ってまず子宮口を柔らかくする薬を入れる処置をすること。
それで一旦帰って来て、午後1時半くらいに病院に戻ること。
翌日消毒に行くこと。その他、術後に気をつけること。
Nさんは書類を読みながら理解し、同意書に署名をして印を捺した。

食事だけして、送ってもらった。

自宅の前に車を停めて、降りる前にふと思い立ち、わたしは彼の手を取って、自分の腹部に押し当て、その上から自分の手を重ねた。
「今夜が最後だから…サヨナラって…」

言い終わらないうちに思いがけず涙がボトボトこぼれた。

今思い出してもあの夜のことは泣ける。
申し訳なかった。不憫だった。切なかった。
命の尊さを知っているのに、とんでもないことをしてしまった。
彼もまた、泣いていた。
食事していたのよりも長い時間、わたしたちは泣いていた。


彼が帰り着いてから、少しメールのやり取りをした。
わたしは、考えた挙句、筋違いかもしれないが、彼の亡くなった奥さんに、この子を頼みたいと伝えた。
亡くなった奥さんのことは彼を通してしか知らないが、彼が心底愛し、その彼に「ありがとう」と言って旅立った人である。この子を頼めるのは彼女しかいないとわたしは思った。
彼も、「わかりました。よく頼んでおきます。」と返信してきた。
今も時々、わたしは見知らぬ彼女に呼びかけ、この子のことを頼んでいる。


手術当日の朝、歩いて行ったかタクシーに乗ったかは記憶にない。
ある瞬間までの記憶が無いのだ。
記憶のわたしは早朝の診察台にいて、処置されるのを待っていた。

「じゃあこれからお薬を入れますから。」
そう言ってカーテンを開けて顔を出したのは、落合先生ではなかった。
医長である落合先生が、手術をしてくれるわけではないのは当然のこことして理解していた。けれど、わたしは落合先生の患者なのである。この瞬間までは落合先生が主治医である。
朝の処置は落合先生がやってくださるのだと信じていた。

見知らぬ先生がカーテンを開けて、既に脚を開いているわたしの顔を見たこともショックだった。

けれど何より、落合先生に見放されたという思いが全身を駆け巡った。

処置は、痛みを伴うものだった。
けれどやり過ごせるくらいの痛みだった。
処置が終わって、先日説明をしてくれた年配の主任看護師が「痛かった? 大丈夫?」と、優しく声をかけてくれた。


途端、わたしは錯乱した。

こらえにこらえていたものが、ここに来て爆発したかのように。


看護師が二人がかりでわたしを押さえ、手を下した医師は立ち尽くしてオロオロした。
そういう光景を冷静に見ているのに、わたしの中の誰かが泣き喚いて暴れようとしている。

「どうした?」 聞きなれた声がした。
落合先生だった。


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いたわりの瞳

妊娠のことを、わたしは今は親友である弁護士に知らせた。

彼女は
「どこまでも試練だねえ。うつ病だけでもオオゴトなのに…。でも、でもね、産むという選択肢はないの? ひょっとしてうつ病もぶっ飛んじゃうかもしれないしさ、Nさんに、産ませて欲しいって、頼んでみたら?」とメールを返してきた。
わたしにもその選択肢は無いのだが、彼にはもっと無いのだと答えると彼女は憤懣した。
「だって、悪いのは男じゃない! なんでアンタばっかりそんな大変な思いしなくちゃいけないのよ! あんたの精神はどうなっちゃうのよ! この先どう生きてくのよ!」

自分のために泣いたり怒ったりしてくれる相手がいるということは、なんと幸せなことだろう。

わたしは疲れた脳がもう思考を停止しており、彼女をなだめることもできなかった。
わたしは病院に行く前にすでにNさんに、彼を罵り怒るメールを送りつけたのだった。
彼は一言もいいわけをせず、ただ謝ってくれた。
それで気を静めてから病院に向かったので、弁護士が怒り狂っても、わたしには反論はもう無かった。

彼女は、「Nさんに転送してください」とコメントをつけて、長いメールを送って来た。
【今回の彼女の背負う重荷にわたくしのほうが呻いております。産めないのは仕方ないにしても、疲れきった彼女に休暇を与えてやってはもらえないでしょうか。彼女は、わたくしの知る限り、休んだことのない人生です。生真面目に生きてきて背負いすぎて、精神を壊してしまいました。これ以上の呵責に耐えうるとはわたくしには思えません。どうかあなたの手で、彼女を休ませてやってはもらえませんか。一生に一度だけの人生の休暇を与えてやってください。お願いします。】
そんな内容のメールだった。

彼女もまた、盾となりわたしを守ってくれる人であった。

Nさんは承諾し、この店の仕事が終わったら、半年間の休養を保証すると、約してくれた。
わたしは、このちいさい命によって、療養生活を手に入れられることになったのだ。
それを励みに乗り越えよう。

わたしは社長に、自分の公休日を含めて4日間の休みをお願いした。店に居る間に何かあっては大変なので、子宮と卵巣の癒着部分を剥がす簡単な手術を受けるのでと説明しておいた。(癒着があるのは事実であった。)

手術までの4日間、わたしはお腹に手を添えながら働いた。
休むと知って社長が「在庫取りをやっておいてほしい」と作業を前倒しにしてきた。
例年わたしがやっていることなので、これは終わらせなくてはならない。
4日目は日曜だったので結構来客があり、わたしは階段を登ったり下りたりを繰り返した。
夕方、お腹が張って出血しはじめた。

待って、もう少し…。
あした病院に行くから…。

仕事終わりには、Nさんが車で迎えに来てくれた。
書類に署名してもらうためだ。
いたわりの色を瞳に湛えて、彼はわたしを迎え入れ、車はゆっくり発進した。

3人での最後の晩餐だった。

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このちいさい命

次の休みの日に、大学病院に行った。
婦人科は2ヶ月ぶりだった。
幸い学会などで休診ではなく、落合先生の優しい声で呼ばれて、わたしは1年半通い続けていた診察室に入った。

こんなことで来たくはなかった…。しかし、抱えている病気や病歴、薬のことなどを考えると、やはりここに来るしかなかった。

「お久しぶりです。どうしましたか? また出血でも?」
先生はわたしを覚えていてくれた。
「いえ、あの…生理が来なくて…。」
わたしは眼を伏せた。

「それはその…お付き合いしている人がいて、心当たりがあるということですか?」
先生に聞かれてわたしはただ頷いた。心当たりはたしかにある。が、時期的にありえないのではないかと思ってはいた。しかし、今それをここで言い立てたところで、事実は一つ…。
「そうですか…。」
先生はわたしからカルテに視線を移し、最近の生理のこと、体調のこと、精神科でのことを質問しては書き込んだ。

「それで…もしもの場合は、産めますか。無理ですか。」
検査より先に聞かれた。落合先生は、わたしのウツ病を良く知っている。
「いえ…。無理です…。」
「そうですか。ではとりあえず検査をしてそれからまたお話しましょう。」

わたしは指示されたトイレに行って採尿し、診察台に上がって超音波を受けた。
そのまま診察室に戻ると、先生の手元にはモノトーンの写真があった。

それを先生はわたしには見せなかった。

「確かに、妊娠ですね。先月のこのあたりにに受精した計算になります。そうすると8週のはずですが、ちょっと小さめかもしれません。」
カレンダーを指されてそう説明を受けた。もう否定のしようのない事実がそこにあった。しかし日にちに関しては、やはり身に覚えがなかった。

「あの…お腹が張るような感じがあって、微量だけど出血した日もあります。」
「うん…ひょっとすると育たないかもしれませんね。もう少し様子を見ますか?」
産めないと決めているわたしにとって、待つことは更に辛いことだった。わたしは首を横に振った。
「わかりました。流産は、どこでどう起きるかわからないし怖いから、産めないなら処置をしたほうがいいでしょう。いつにしますか?」
「では月曜日でお願いします。」
わたしは、Nさんが絶対に休めないとわかっている日を選んだ。

彼は、絶対に休んで来ると言ってくれる。そういう人だ。けれど、その無残な姿をわたしは彼には見せたくなかった。何も二人でそれまで共有することはない。
彼が背負うべきものは別にまたある。
わたしは一人で受けることをもう決めていたのだった。

ウツ病なのに…やっと治療を始めたばかりでまたこんな試練に…。
わたしがそんな風に考えてうつむいていると、それを見透かしたかのように落合先生はこう言った。
「だけど、いい大人なんですから、きちんと気をつけないと。ね。」
いつもより厳しい声だった。

わたしはわたしの目線でしか事を見ていなかったことを恥じた。
この小さい命。尊い命。
それを勝手な都合で葬ろうとしているのだということを、忘れていたことに気が付いた。
恥ずかしいことだった。

「手術で取り出した胎児は、大学で研究に使わせていただいてよろしいですか?」
落合先生は丁重にそう申し出てくださった。その言葉にわたしは救われた。
「はい、ぜひお願いします。」
産んであげられなくても、お役に立つならば救われる。そんな思いだった。

診察室を出て、看護師さんから説明を聞く。それが、さっぱり飲み込めなかった。
落合先生のまえでは何とかシャンとしていたが、本当は動揺と恐怖と辛さで心は嵐になっており、主任看護師の説明がさっぱり理解できないのだ。

とにかく書類を数枚もらって、わたしは駅に向かった。
記録がないのでわからないが、この子と一緒にいられるのがあとたった4日と思い、なにか美味しいものを食べさせてやらなければと考えたことは覚えている。


婚約者が逮捕され、借金を背負わされて自己破産し、拘置所に面会に行きながら働き、裁判に証人として出廷し、刑務所に通い…

体を壊し、精神を病んでその人を捨てる決心をし、そしてやっと人生をリセットできる人と巡り会って結婚を決めたとたん、こんなことに…。

わたしは、どこまで頑張れるのかを試されているのだろうか。
下腹に手を当てながら、暗澹たる思いで歩いた。

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赤紫のライン

わたしは、この販売の仕事が好きである。
勉強した知識と、こちらの誠意が通じてお客様の心を動かす。そうして、一度出て行ったお客様が、「やっぱりあなたから買います。」と戻って来てくれたときなどは、至福の喜びなのである。
いくらハードでも休みが少なくても頑張れるのは、「喜び」のある仕事だからだ。
自分の適性を活かせる仕事だからだ。

また、店のみんなのこともわたしは好きだった。
売れなくてしょげていると、「あんたがやって売れないんじゃ、他の誰がやっても駄目だよ。気にしないでまた頑張って。」といってくれる古参のおばさん。
よろよろしているわたしに代わって力仕事を引き受けてくれる男勝りのおばさん。
ちっちゃいおかみさんに、穏やかな社長。
わたしは自分の体調は二の次にして、とにかく仕事に行った。ただ必死に行った。

だから、自分の異変に、全く気が付かなかった。
体は辛くて当たり前だったから。

生理が、来ていなかった。

昨年11月からは乱れていなかったのだが、年が明けてからは来ないままに、2月も下旬に入っていた。
Nさんに言うと、彼はハッとしてデートした日を調べ始めた。
「いや、そんなはずはないんだけど…。でも、絶対に、ということは世の中には無いから…。」
「そうだよね…。今も、少しだけ出血してるから、もう来るかもしれないしね。」

わたしたちは沈んだ。

一人ではとても怖くて、Nさんと会った時に、わたしは妊娠検査薬を試してみた。
数分待つまでもなく、小窓に鮮やかな赤紫色のラインがくっきりと浮かび上がった。
そのラインを見たのは初めてだった。

わたしはそれをNさんに見せた。
彼はソファに座り込んだ。
「ごめん…。」
ネットで調べたところによると、今は市販の妊娠検査薬の性能は上がり、90%以上の確立で検出できるという。つまり、この赤紫のラインを見たら、ほぼもう間違いないというのだ。検査薬の説明書も読んでみたが、結果から逃げる項目は見つけられなかった。

「次の休みに、落合先生に診てもらってくる…。」
もうこれでこの科は終わりですと、2ヶ月前に言われたばかりなのに…こんなことでまた行くことになるなんて…。
「うん…そうしてくれる? 一人で大丈夫? 僕休もうか?」
「ううん、大丈夫。」

Nさんは鼻をすすりながら聞いた。
「それで…もしもの時は…どうしようか…」

わたしは彼の気持ちはわかっていた。
そして自分の気持ちも恐らくは変わらないものだった。
「…産めない…と思う…。どの理由一つ取っても、わたしには、無理…。」
涙がこぼれた。
Nさんは頷いた。
「僕も、無理だ…。ごめん。本当にごめん。」

ここに、小さい命がいる。愛する彼との子がいる。
でもそれをこの世に出して上げられる力がない。
申し訳ない…。

無力な大人二人は、ポロポロと涙をこぼした。

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わたしの辞書。

年明けは6日から仕事に出た。いきなりの土日である。
しかし店の状況がどうであったかなどの記述は一切残っていない。
ちらほらとメモが見られるのは、3月に入って一時的に数日間のヒマな時期が訪れてからで、1~2月の記述は、勤務時間と、仕事が終わってからデートをした記録のみである。

朝、2個のアラームで自分をたたき起こし、吐きそうな胃にパンを詰め込み、ヨロヨロしながら駅に向かい、電車に乗って職場に向かう。
店に着いて着替えるあたりで、ようやくわたしは目覚め、どうやってここまで辿り着けたのだろうと不思議に思うのであった。

それ以外に、週一回、高校の定時制の講師に行っていた。
ウツ病なのにわたしは2種類の仕事をこなし、最低限の家事をして、倒れこむようにハルシオンで眠り、まばたきしたぐらいの刹那で朝が訪れるという繰り返しだった。

週一回の休みは、精神科に行く以外、ただZZzz…のマークのみである。

今年はどういう意向か、今まで経験のない高額の商品が仕入れられていた。
「社長、わたしこんな高いもの売った経験がないです…。」
プレッシャーに頭を垂れてそう言うと、社長はいつものなつっこい笑顔で言った。
「あなたなら大丈夫。なんとか、頼みます。」

帰宅してわたしはPCでその素材・手法・独自性について徹底的に調べて勉強した。
それをわかりやすく書いて、事務所に貼ってみんなが読めるようにした。誰でも売ることができるように。
けれども、わたしはその商品を絶対に自分の力で売りたかった。
お風呂に入りながら、何度もお客様との対話をシュミレートした。
大きい店に負けないためには、専門的な知識が絶対的に必要である。


ある雨の月曜、若い夫婦が来店した。探している商品があるようだった。
それはこの店ではリスクが大きく仕入れられない類のものだった。
と、その「一番高い商品」に、夫のほうの目が留まった。
わたしは、勉強した知識をゆっくりと説明し、どんなにか商品価値が高いものであるかを低い声で説いた。
夫婦二人の体がその商品に対して正面を向いた。
わたしは手袋をして商品を目の高さで見せ、優れた技法とその希少性について、そしてその価値がいかに高いかについてを話した。

「もう少し、日にちが経ってから来たら、お安くなったりしますか?」
夫のほうがそう尋ねて来た。駆け引きに出たのだ。
「それはございません。というよりも、このランクのものは早々に売れてしまうものでございます。今の時点でここにあることが、奇跡なんです。明日お越しいただいても、もうここにはないかもしれません。」
わたしはそう言うと、夫婦はこそこそとなにやら相談していたが、「家族会議をしてきます。」と言って、一旦店から出て行ってしまった。

「おかみさん、弘法様のお水換えて、お祈りしてきてください! あれ、いけそうです!」
わたしは事務所のおかみに声を掛けた。おかみが2階にすっ飛んでいってお祈りを終えて戻るか戻らないうちに、以外に早くその夫婦が戻って来た。

「これをください。」

わたしは全身鳥肌が立った。感謝の余り泣きそうになった。
客は、全額を現金で払い、ここに来て良かったと言い残して帰って行った。

店のみんなで喜び合った。本当に嬉しかった。
ウツ病でも働ける。ウツ病でも売り上げを上げられる。ウツ病でも人の心を動かすことが出来る…。


その日の夕方、わたしは社長に「ウツ病である」ということを打ち明けた。
社長は「気がつかなかった。」と驚き、具合が悪そうにしてること・化粧をしていないことなどはわかっていたが、まさかウツ病だとは感じられなかったと言った。
「去年までと少しも接客は変わらないし、自信持ってやってください。頼りにしてます。どうしても辛いことがあったら、言いに来てください。」
社長は他には口外しないことを約束し、そう言葉をくださった。

辛いときはときどき社長のところに行って泣き、そうしながらも売り上げはそこそこ順調で、わたしは夜はPCで様々なことを勉強した。自分の病気のことを考えている暇など無かった。ひたすら薬で症状を押さえ込んでいたに過ぎない。

疲労は蓄積し、アレルギーに襲われて全身の痒みでのた打ち回り、目の下にはクマが出来、それでもわたしはただひたすら仕事に行った。

それがわたしの、
存在意義だった。

「ほどほどにやる。」という言葉も、「まあ、いいか。」という言葉も、わたしの辞書には載っていなかった。

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庇護されるということ

人は、期待をするからがっかるする。期待などしなければ辛くないのだ。
けれど、他人ならいざ知らず、身内や配偶者には、「こうあってもらいたい。」と期待をし、それが叶わないとがっかりし、怒りを覚える。

わたしは母に誉められたことが一度もない。面と向かっても、他人の前でも、けなされてばかりいた。
足が遅い、自転車に乗れない、泳げない、不器用だ、絵が下手だ、工作はもっとヘタクソだ、紐は結べないし箸も持てない、時計が読めない、体が弱い、性格が暗い、いい子じゃない…。

自転車には乗れるようになったが、他は確かに事実だった。
言われても言い返せない。ただ、言われるままだ。

それでもわたしは母に愛されることを望んだ。やさしい言葉をかけて欲しかった。

そしてがっかりし続けた。

階段から落ちて怪我をしたわたしの頭を「何やっとるの!」と殴る母だった。
結婚前に卵管炎にかかり、会社を会社を休んだわたしを、「あんた、そんな体では嫁になんか行けへんわ!」となじり、それはさすがに父が静止したが、わたしの心は切り裂かれた。

息子を産み、その生き物が自分の首をかき抱いて寝るような愛おしい存在になった頃、わたしは、自分が何故母に愛されないのかを疑問に感じ始めた。
子供とは、こんなにも愛おしく何にも換えがたい喜びであり、無償に愛すべき対象であるのに、と。
わたしには、誉めるべき箇所が無いのだろうか。
彼女にとって、わたしは愛おしい存在ではないのだろうか、と…。

精神的な距離を置くようにし始めたが、わたしが母を避けていることになどもちろん気付かず、留守電に「なんで電話してこんの!」と不機嫌な声が入っているたびにわたしは腹痛を起こした。
年に一回、正月にしか帰省しなくなった。


再婚を、喜んでもらいたかった。いい人に巡り会えた事を祝って欲しかった。
安心しても欲しかった。
けれどもそこで母は、積年の恨みをわたしにぶちまけたのだ。
アンタが離婚したことが恥ずかしかった。どこかの正社員になって欲しかったのにわけのわからん仕事をした。法事にも来なくて肩身が狭かった。
アンタなんかが結婚でうまく行くはずがない。
母はそうわたしをなじった。

「じゃあ、わたしがこのまま一人でいたほうがいいと思っているの?」
泣きながらわたしはやっとの思いで母に尋ねた。
「別にそうとは言っとらん。アンタにはどうせ無理やと言ってるだけや。」

期待などしなければ良かったのだ。喜んでもらおうなどと考えなければ良かったのだ。
そうしたらこんなに傷付かなくても済んだ…。

わたしはウツ病のことももちろん言えず、ズタズタの心で帰京した。

Nさんに事の顛末を話すと、彼はこう言ってくれた。
「僕が盾になって、ヒメを守るよ。もう、無理して行ったり電話したりしなければいいよ。結婚すれば、僕の家の人間になるわけだから、向こうも無理は言ってこないし、法事も僕が行けばいいでしょ? もう頑張らなくていいよ。今度僕が行って話をして来る。」

わたしが生まれてからずっと、そしてもし前世があるのなら前世からずっと探していて欲しかったのは、「守ってくれる男」だったのだとわかった。
辛い時に抱きしめてくれ、危ないときには身をもって庇い、矢面に立って守ってくれる男。それが欲しかったのだと知った。
Nさんに会うまで、わたしは「守らなくてはいけない男」としか付き合ったことがなかった。

好きな男を守るために、売れるものは売った。
そしてそれはじわじわとわたしの精神を蝕んで行った。

守られる・庇われる安心感というものを、わたしは初めて体感したのだった。


     ****************

☆おまけ☆
本日も【柏氣功整体院】に行って来ました。格段に良くなって来ました。信じない方にも効果はあります。サイドバーからリンクできます(^^)v

地方にも出張してくれますし、写真や電話でも気を送ってもらえます。

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泣ける胸

うつ病患者なのに、予定を入れすぎています。
しかもリラックスの仕方が全くわかりません。
でも、何か出来たこと、人と会えたことや出かけられたことをもって、良しとしましょう。


本編に戻ります。
     ******************

Nさんとの関係は、わたしが刑務所の彼を捨ててから一気に展開し、わたしは心身共に彼無しでは生きては行けないように感じ始めていた。
結婚を申し込まれた。
それも何度となく。

しかしわたしは自分を疑った。「彼氏を支える」という目標を捨て、働くこともままならないほど体を壊し、弱気になってNさんに頼り、甘え、依存しているだけだとしたら、それは「愛」ではない。
わたしは、Nさんを、愛しているかどうか。
自分にとって彼が必要というだけではなく、Nさんの存在を心から愛おしく思い、自分が彼を幸せにしたいという気持ちになれるかどうか。
そして結婚を実現するために、いままで引きずったままでいる様々なものや事柄を捨ててしまう勇気を持てるのか。

それを確認してからでなくては、返事はできなかった。

そうこうしている間にわたしはウツ病だと診断されたのだった。
おそらくわたしは、Nさんと知り合った頃には既に発病していたと思う。
刑務所に入った人の一件は、引き金であったのだ。

Nさんは、ウツ病のわたしをそうと認識せず愛してくれた。
泣いてばかりいるかと思うと、些細な言葉に突っ掛かり怒りをぶつけたり、甘え放題甘えたりするわたしを、愛して守って来てくれた。
全て事が終わるまで、深くは聞かず待っていてくれた。

そして、「もうそろそろいいんじゃない?」と聞かれて、一連の事をすべて話した時に、深い理解をしながらじっくりと話を聞き、話し終わったあとにわたしを立たせ、しっかりと抱きしめて、彼はこう言ってわたしのうしろ頭を撫でてくれたのだ。

「本当に大変だったね。頑張った。よくやってあげたね。偉いよ。」


他の誰も言ってくれなかったねぎらいと賛辞を、一番しにくいであろう彼が言葉にしてくれたのだ。

わたしは彼の胸の中で泣いた。

そしてその年末に、結婚を承諾した。

2007年の正月に実家に帰省し、両親に結婚の意志を話した。
そこで母から言われた数々の言葉の数々は、刃物としてわたしの心を切るものであった。

わたしには息子しかいない。異性である。たまらなく愛おしく、この子のためなら何でもしてやりたい。(やらないが。)
だから母からした娘という存在が、そもそもわからない。
ただ、これだけは言える。はっきりと理解した。

母親とは、娘が不幸であることは嫌である。
しかし、娘が自分より幸せなのは、もっと許せないことなのである。


わたしは母に一切の期待をせず、心を開くのをそこでやめた。

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狙われた腕

本編から外れ、【波動療法】の続きです。
     *       *****************

やがてわたしの潜在意識が「ストップ!」のサインを送ってきた。
前回同様両腕が鉛のようになるのがサインだ。
「先生、今日はもうこのへんで…。ありがとうございます。」
わたしはそう言って終わっていただき、カーテンの中で着替え始めた。

「左腕はやっぱり痛いですか。」
遠慮がちに聞かれた。腕にも肩甲骨にも首にもその原因は見当たらない。けれど、明らかに痛いのだ。こうしてブラのホックをはめることだってものすごく辛い作業なのだ。
「はい、まだ…。悪いところが無いなら、心因性かもしれません。どうして左腕が選ばれたのかはわからないですけど…。」わたしはそう答えた。
「心因性ってどういうことですか?」
先生の問いに、わたしはシロウトながら知っていることを説明させてもらった。
ウツ病という括りに関わらず、精神が作り出す痛みや症状があるということを。
心身症は、どんな症状でもどんな痛みでも作り出せるものであり、実際に、激しい腰痛や全身の痛み、歩けなくなる、しいては目が見えなくなったり耳が聞こえなくなる人だっているのです、と。
「あれ、それに似た言葉を見たことがある。」
先生はファイルを繰ってあるページを開くと、着替え終わったわたしをもう一度施術台に座らせて金属棒を持たせた。

「やっぱりそうだ。これは、脳が作っている痛みです。」

やっぱりそうか。わたしは諦めに似た納得をした。
ウツ病は、不安や苛立ち、孤独・恐れ・怒りを常に抱え込んでいる。
その訴えの一部が、この疼痛なのだろう。

波動は、容易には入らなかった。
そしてやはりわたしの左腕は痛みで回らず上がらない。


理由を知る。そしてそれを受け入れて認める。
これがわたしのウツ病に対するカウンセリングのテーマである。
同様に、わたしは体の声も聞き、オトナとして調整役になってやらなくてはいけないのだ。
今はまだまだ出来ない。振り回されっぱなしだ。
けれども、確実にわたしは学び、歩を進めている。

再生して、
楽な自分を手に入れるために。

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次回より本編に戻ります。        
        ******************

【柏氣功整体院】

千葉県柏市中央町5-9 ニホンメガネビル202
Tel・Fax/04-7164-1106

http://www1.ocn.ne.jp/~kikou/

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ちいさな臓器・二つの神経。

今日も本編からは外れ、昨日の「波動療法」の続き記事です。
                *****************

予約制なので、他にお客さんがいない気安さがあり、わたしはアレルギーのことを話した。
夏場には「汗胞/カンポウ」という湿疹のようなものがあらゆるところに出ること。
冬は、ブラジャーやタイツを脱いだだけで腫れ上がって気が狂いそうに痒みがあること。今はアレジオンという薬を飲み続けていて症状を抑えているが、きゅうりを切ってもイカを切っても手が腫れ、サトイモなんかは全く触れられないことなどを話した。
埃にもかぶれ、ちょっとした刺激にも腫れ、昨年の秋から、わたしは化粧というものを諦めたままだ。

波動を血液に通し、皮膚も調べる。
アレルギーの原因は、皮膚には無かった。これは、わたしの思ったとおりだった。
精神疾患でもアレルギーは起きるとわたし自身は考えている。原因は皮膚ではない。皮膚に症状が出るのは、見えやすく認識されやすいからだ。けれど、アレルギー外来ではなく、面倒なので大学病院の皮膚科に行っている。

「副腎を診てみましょう。」先生は副腎に波動を入れようとした。
入らない。こいつが原因だとわたしは思った。
副腎とは、左右の腎臓にチョコンと傘のように張り付いている小さな臓器である。しかし、「副腎皮質ホルモン」というものを一手に引き受けて出している大切な内分泌腺だ。
そこから出されるホルモンが、
◇ストレスを受けた時に体を恒常に保つ ◇血圧の調整を行う ◇炎症を抑制して防御にあたる。  などという、ストレス時に体を守る門番の役割をしているえわけだ。

強いストレスに長期間さらされていると副腎ホルモンは枯れ果てる。そして様々な症状を出してくる。これが危険信号だったのだ。

わたしの副腎は波動の侵入を拒み続けた。
どっちがどう先かはわからないが、ウツ病とは密接に絡まりあっているものである。
ぜひ何とかして欲しかった。

拒んで拒んで、ようやくここも侵入を許した。
「相当にあちこち体悪いですねえ。この状態でよく生きて来れたね。」と先生は笑った。

『止まらない病』についても話した。体は疲れていて、休みたい・リラックスしたいのに、リラックスの仕方がまったくわからないんですと訴えた。わたしは、どこに居ても心からのびのびしたことがない。
それは残念ながら、療養で自宅に居てもそうだった。

「ふーんなるほど。」先生は、交感神経・副交感神経に波動を入れながら納得していた。
この二つの神経の入れ替わりで、通常は緊張とリラックスが交互に訪れるのらしい。
わたしは、そのスイッチの切り替えが全然うまく行っておらず、常に緊張状態であるため、すんなり寝付けず、夜中にあっちこっち引っ掻き回し、歩き回って疲れ果てても尚眠れないという「誰か止めて~!」状態になるのだという。
これはとても納得した。そこに、物事を正常に判断したりまとめたりする力を失ったウツ病が絡まりあって、わたしは止まらなくなってしまうのだ。

一端スイッチが入ってしまうと、また切り替えもきかない。
睡眠には入りにくいが、眠ってしまうといつまでも寝られる。(日ごろは適当なところでアラームかけて起きていますが)
そして…性格上、事を穏便に済ませたいがために、ムッとしてもカチンときてもかなり我慢をするのだが、ウツ病になってからは、そうしたあとでズドンとどん底まで落ちてしまうことが起きる。事柄や存在を全否定してしまう。

そういうときのわたしは、ぼんやり薬を見つめていたり、読んでも頭に入らない本を広げてぼーっとしていたり、お風呂の中でしくしく泣いていたりする。「正気を無くしたらどうしよう」と、真剣に恐ろしくなるのがこういう時だ。

なので先日は、彼氏にちゃんと反論してみた。「断固としてそれは認めない・絶対に違う!」と言い張ってみた。これは、今のわたしには相当な勇気の要ることだった。
しかし結果は、同じだった。ズトンと落ちて、怒りも持続した。
この「怒りの持続」も、二つの神経の切り替えがうまく出来ないのが理由だそうだ。

脳と副腎と首。
わたしが相当に病んでいるのはその3ヶ所であることがわかってきた。
自分を知るのは本当におもしろい。アンテナの動きを実際に目で見て、脳が侵入を拒んだり怒って闘ったり、諦めておとなしく受け入れたりして行く。

わたしは、治るかもしれない。
そんな希望が頭をもたげて、久しぶりに上機嫌なヒメになった。


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もう一つ紹介したいエピソードがあるので、次の記事に続けますね。

  【柏氣功整体院】にはサイドバーのリンクよりアクセスできます。

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波動の侵入。

また本流からはずれて、『気功整体・波動療法』について書きます。
ブログ村
のうつ病のページから来てくださる方が多いので、その整体院にリンク張りました。(サイドバー右側)
睡眠障害に苦しんでいる方、体が辛い方、その他長年の症状に苦しんでいる方の参考になればと願っています。


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二回目の【気功整体院】に行って来た。
前回は初めてだったので帰りにヘロヘロになってしまったが、今回はどんなことが起きるだろうと、わたしはワクワクしながらドアを開けた。
リラックスウェアに着替えながら、カーテン越しに先生と会話する。夕べは眠れなくて明け方5時にようやく寝付いたこと、先週は帰りにヘロヘロになり、10時には寝られたこと。紹介者にメールで報告したら、効果があったことを喜んでくれたことなどを話した。
簡単な言葉で言うと、話しやすい人なのである。なんというか…立ち位置が同じで、対等に話せてしまうって感じ。(先生ごめんなさい!)

わたしの精神科の主治医も男性だが、ゆっくり話をきいてくれる雰囲気を持った人ではない。ただ、薬の処方はそのバランスも加減も素晴らしいらしい。
心理カウンセラーも男性だが、こちらはもう少し、わたしは「客」然と扱われる。しかもこのごろは心理学の勉強会みたいになってきた。それはそれでとても面白いので楽しみではある。

施術台にうつ伏せになり、気功開始。凝ってはいるが、先週ほどではないとのこと。
確実にツボを捉えそこに軽い圧迫と、気が注入される。先生の手が震えてくるのは、強い気が発せられたときで、自分でも止められないのだという。
次に座って肩と首。首はひどいものの、前回よりはかなり改善しているとのことだった。

左腕が、2日まえぐらいから痛みのあまり動かなくなっていた。
診ていただくと、腕そのものには全く原因が無いという。一番怪しい首に気を入れてもらう。ところが改善しない。肩甲骨・背骨・胸骨のどこにも原因がない。

お互いに腑に落ちないまま、股関節ほぐしに移行。(これは相当な効果があり、歩くスピードが早くなった)
そしていよいよ【波動療法】に入る。

【波動療法】とは、ドイツで発明された治療で、ドイツ国内では5000箇所以上の医療機関で治療方法として取り入れられているポピュラーな療法なのだが、日本での知名度はまだまだ低い。
これは、信じようが信じまいが、直接脳や内臓に波動を送り、様子を見つつ悪ければ調子を治してしまうという、副作用のない療法であり、その効果を実感できたのであれば、幸運だとわたしは考える。

金属の棒を左右の手に持って、今回はベッドに腰掛けて施術を実際にみせていただくことにした。
先生の手元にある器械のダイヤルが回されて、それぞれの臓器を見ていく。アンテナが動き出す。
心臓に波動が入らず、二人ともちょっと焦った。ブロックが効いているらしく、不整脈もちのわたしの心臓は波動の侵入を拒んだ。やっと侵入し、見てみるとどこも悪くなかった。
膵臓・脾臓も大丈夫で、肝臓も前回の波動が効いて、機嫌が良くなっているようであった。

不整脈の原因は心臓にはない。自律神経に波動を入れてみた。
入らない。こいつは頑固だった。拒んで拒んでわたしがボーッとなった頃、ようやく侵入は許された。しかし、侵入を怒ったのかアンテナの先はものすごい勢いでブンブン回り、ちいさな円に治まるまでずいぶんかかった。
「怒ってますねえー。」 「いやぁ頑固ですねー。」などど会話しながらアンテナを飽きず眺めた。

体内時計は、先週はメチャクチャだったのが、今日は整っている。
睡眠野も、波動の侵入を素直に受け入れた。

睡眠薬を飲むことについて、わたしにはためらいはない。精神科医は『酒や醤油のほうがよっぽど体には悪いです。』と言う。飲むことによって質のいい眠りが得られるのであれば、わたしはそれでいい。困っていたのは、睡眠薬及び眠くなる副作用を持つほかの薬を併せて飲んでも、尚寝付けないということなのだ。

体内時計が整い、睡眠野が侵入を拒まないのであれば、わたしの憂鬱は改善していくだろうと思う。

しかし、自律神経以外に、もうひとつ
厄介なヤツがみつかった。

        **************

長くなるので、二話にわけますね。

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掲載の許可を頂いたので、興味のある方、そしてお困りの方はぜひこちらへ。ごくまれに、地方出張でお留守の場合もあります。
【柏氣功整体院】
千葉県柏市中央町5-9 ニホンメガネビル202
Tel・Fax/04-7164-1106

http://www1.ocn.ne.jp/~kikou/

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誰かいる。

お陰さまでこの記事が100話目となります。
ご訪問くださっている皆様のお陰で続けてこられました。ありがとうございます。
文章にまとめるということは、わたしの散乱した脳には非常に効果があったと思います。
過去を冷静に見つめなおし、自己分析をするいい手助けとなったように感じています。
ときにはウツの波に呑まれ、UP出来なかったり、逆に吐き出したりしましたが、わたしを廃人にさせない力が、ブログというものにはありました。
読んでくださって本当にありがとうございます。もしお嫌でなければ、ひとことコメントをいただけるととても嬉しくて励みになります。

        ******************

ここからは2007年の話になります。

年が明けて元旦に、わたしは帰省した。新幹線の切符は、Nさんが取ってくださった。
乗るのは東海道新幹線である。
わたしは何ヶ月ぶりかの新幹線が嬉しくて、東京駅でサンドイッチと、本を一冊買った。
その本が、加藤諦三さんの【心の休ませ方】という本だった。
「ひかり」に乗り、わたしは本を開いた。そしてこれはやられたと思った。
意識的にこれはわたしの手元にやって来た本だと思った。
夢中になって読み進めた。

ところが、目に入っていないと思い込んでいた車外の景色に、わたしの心が異常にざわつき始めた。
あれ、なんだろう? どうしたんだろうわたし。

新幹線は、速度を緩め始めた。
静岡駅が近かった。

わたしは、いつも刑務所の面会に行くときに乗っていたのと同じ「ひかり」に乗っていたのである。
それに気がついてざわつきは大波に変化した。わたしは自分の変化に慌てた。
自分の傷痕にまったく気が付かず、あれ以降、目の前の事柄や体調、復職に向けて必死に対処していたため、わたしは自分が静岡駅にこんなに反応を示すとは思ってもみなかったのだ。

見慣れたホームに、新幹線は停車した。
わたしは本を閉じ眼を閉じて、波が静まるのを願った。表現の仕様のない恐怖がザワザワと背中を這い回った。動悸がひどくなり、呼吸は乱れ、汗をぐっしょりかいた。


どうにか実家に着くと、いつもの年より一日早い帰省を母が喜んでいた。
それをがっかりさせるのは辛かったが、「来て早々悪いけど、少し休ませて。」と、勇気を出して言えた。
二階にひいてある、一足先に年末に来ていた息子の布団にもぐりこんで、わたしは丸くなって眠った。

息子が起こしに来たときは、夕飯の支度ももう済んでおり、彼は、「二人とも心配してるけど…食える?」と聞いてきた。
起き上がってみるとざわつきは無くなっており、わたしは階下に降りて元日の夕餉を囲んだ。

両親にはもちろん、ウツ病のことは言えなかった。
言えば理由を問われる。答えられない。心の持ちようが良くないからだと責められる。それを避けたかった。
そして今は思う。それを聞いたら母のほうがウツ病になってしまう。
けれどもそのときは、親に弱味を見せない娘を、まだ演じていなくてはいけなかった。

自分の心を守るために。
 

056_3 そんな元日が2007年のスタートとなった。
初めて、自分の内側にいる誰かに気が付いた日にもなった。


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