« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »

2007年8月

憂鬱な子供

P1060752 (今夜もまだ本編には戻れません。)
『捕まえる機会』の続きが辛くて書けません。書こうとして当時の手帳を開き、古い携帯のメールを読み返すということが苦しくてできません。
なので、精神の調子が良くなるまでの間、ウツ病記事にします。

わたしがウツ病であると診断されたのは、去年の11月末のことです。
ウツ病患者としては、まだ初心者です。
けれど、精神科に回されるまでの1年半のあいだ、体中が悪くて大学病院の外科・小児科以外の科はすべて回ったほどでした。そしてそれらすべての症状は、抗ウツ剤で止まりました。つまりそれらは全部ウツ病の症状、体が悲鳴を上げていたということなのです。
なので、病名がはっきりしたときは、心底ホッとしました。なんだ、そうなのか。そうなっても不思議じゃないなあ。仕方ないよなあ…と安心しました。

・辛い出来事があったので、心が辛いのは当然。
・わたしには期待されている役割があるので、それを演じていなくてはならない。
・子供を守って生きて行くためには、摩擦を避けるために迎合しなくてはいけない。
・親に頼ってはいけない、愚痴をこぼしてはいけない、逆らってはいけない。
・生活費が足りなかったら……

…こんなふうにわたしは自分の心を潰すことを沢山重ねてきました。
でも、わたしは一体いつからウツ病だったのでしょう。
高校生の時は、絶えず生理不順でパニック障害、不安神経症、起立性低血圧、自立神経失調症。

いえ、もっとさかのぼると、わたしは子供のころから「憂鬱な子供」でした。
弾けるように楽しかった記憶というのが少ないのです。
一人っ子ですが一人で居るのは好きでした。狭い部屋の隅っこで、本を読んでいるのが好きでした。退屈したことが一度もありません。本を読み、詩を書き、イラストを描き、ロックを聴いて一人で過ごすのが好きでした。学校は不得手なことだらけで苦手でした。
幼稚園…保育園…わたしは何だか憂鬱な子供でした。寂しいというか…いつも切ないのです。回りからはそうは見えなかったでしょう。学級委員だから、しっかりしてなくちゃいけなくて、一人っ子だからしっかりしてなくちゃいけなくて…。

生まれたときからウツな性格で、それに加圧されたときに「鬱病」として発症するのなら、わたしは治らない。薬を飲みながら、一生付き合っていくしかないのだと今日は考えています。

わたしの主治医は、薬の少ないことで有名な精神科医です。種類をたくさんにすることにも慎重で、量も最低限しか出しません。
飲んでいるのは
・抗ウツ剤/パキシル・レスリン
・抗てんかん薬(気分調整剤)/デパケン
・精神安定剤/デパス
・睡眠薬/ハルシオン
・頓服/コンスタン
それに、胃腸薬2種類と抗アレルギー薬を飲んでいます。
今日は無理を言って、デパスの量を増やしてもらいました。これ以上はダメだよと釘を刺されましたけど。

薬で治る部分と、治せない部分があると思います。気の持ちようではどうしようもない、生来の性質であるなら、抱えていくしかありません。そのことに自分が一体耐えていけるのか、いまは全くわかりません。
愛が無ければ治らない。でも、シャワーだって出しっぱなしってわけにも行かないように、愛を浴びたら、自分で体を洗えるような、せめてそんな力は欲しいと思っています。

あすは久しぶりのカウンセリングです。材料は全て提出しました。あとは手法を学びに行きます。
Tyobijinndaiji_018_2

ではまた。ありがとうございます。
 

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ うつ病(鬱病)へ

| | コメント (4)

もどれません。

P1060747_2_2 (今日も本編に戻れそうにありません。)


わたしと会ったり見たりした人は、まさかウツ病だとは思わないでしょう。
すこし挙動不審なだけだから(笑)
本当にひどい時は出かけられない。だから、わたしが苦しんでいる様・醜く歪んでいる様を、誰も見ていないから。
歪んでいる自分は本当に苦しい。
泣かずに寝られる夜は数えられるくらいしかない。
睡眠を減らしてみても、疲れてみても、スッと寝付ける夜は少ない。
それが異常な強迫観念になる。寝なくちゃいけない、朝は起きていなくちゃいけない…。

でも、起きていられる日も出かけられる日もあるのと同じように、どうしても起きていられない日も、寝付けない日もあるのです。

ほんの些細なことで心がささくれる自分を醜いと思い、醜いと思う自分が辛い。
それでも、「まあいいか~。」と考えることの出来ない自分が嫌になる。

愛されてるのに、不満を持つ自分を恥ずかしく思い、それでもささやかなことを見過ごせない自分に腹が立ち、どうしようもない深みにはまって体も心も冷えて行く。
みんな優しい。みんな心配してくれてる。
だからこんな歪んだ自分を見せたくない。この歪みを治したい。誤った認知を正したい。

存在感なんて無くていい。半透明でちっぽけでいい。

今夜もわたしは部屋のなかを散らかし、どう収集をつけたらいいかわからず途方に暮れ、カバンのなかを無意味に引っ掻き回し、携帯をあっちに置いたりこっちに持ってきたりという、不審な行動を繰り返している。

疲れてきたら、ようやくお風呂に入り、薬を飲んで、横になる。
眠りが訪れるのは、早ければ20分後。
遅ければ、2時間後…。
悶々としているわたしを、見ている人はいない。ただ、歪んだ自分と闘い、過去の自分を責め、恥じ、怒り、憤懣し、傷ついていく。

治ったと言われるのは辛い。治ったならいいけど、そうじゃないことを夜のわたしが一番知っているから。


とてもいいことは、死にたくならないってこと。希望を持ってるってこと。愛されてるってこと。
P1060759_2
だから生きていられる。


あしたは本編に戻れるかな…。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ うつ病(鬱病)へ

| | コメント (0)

しあわせのカタチ。

P1070363_3   (今日は本編から外れます。)

わたしは今日は生理で、大変感情的になっております。
なので本編が書ける精神状態ではありません。
でも、わたしの
しいひとはもう眠っており、この溢れる感情の受け手を読者の皆さんに担って頂きます。

今夜は怒りの方向に感情的なのではなく、昔、不思議の館で見た、宙に浮いたコップから透明な水が溢れて溢れて止まらない光景のように、何か神々しいものに満ち溢れた感情で一杯です。

なんという幸せを、わたしは授かったのだろうと感嘆しています。
現在、ウツ病で療養中です。
こんな
幸せ話があるでしょうか。
もしもう一本の道を歩んでいたら、わたしはウツ病を発症していたことにすら気付かずに働き続け、程なく均衡を失くして壊れ、今はここにこうして存在していないかもしれないのです。ある日フッと死んでしまう人の多くは、そうなんだと思います。

けれどわたしはウツ病であると診断され、充分な療養を与えてもらい、大学病院の精神科に掛かり、適度な適切な薬を飲み、カウンセリングにも通っています。
なんという幸福なことでしょう。
ウツ病と知って離れて行く友人も無く、腫れ物に触るようにではなく普通に「会いたいよ」と言ってくれ、愚痴をこぼしてくれ、馬鹿話をしてくれます。
ウツ病患者に人生相談をするという、呆れるほど素晴らしい友人にも恵まれています。
2年も通っているので、薬剤師の女性ともすっかり親しくなり、今飲んでいる7種類の薬について、丁寧に説明してくれ安心感を与えてくれ、月に2度顔を見るのを楽しみに待ってくれています。

いい関係を保てずに、距離を置いていた実家にも行けました。
陰で母が泣いていたのを見ました。
ケアセンターに入所している叔母が、「わたしが先に死ぬから、ヒメちゃんの苦しみをみんな持って行ってあげる。」と言ってくれていることも知りました。
親に、叔母たちに、どんなにか愛されていることを知りました。


生きているだけで、充分意味があるのだと、理解しました。

治らなくてもいい。生きていればいい。何かの役に立てばいい。誰かに少しでも安らぎを与えられればいい。
何かになれなくていい。ちっぽけなワタシでいい。
ただ、生きているだけでいい。


ウツ病になれて良かった。発症できてよかった。

わたしは過去の全ての自分が嫌いでした。自分勝手で思いやりのカケラもなく傲慢でお高い自分が大嫌いでした。本心を明かさず演じ続けている自分にも疲れ果てていました。
でも、そんな自分の骨をバラして、その歪みをただして、再構築するチャンスを与えられたのです。
嫌いな自分とサヨナラできるのです。

こんなに傲慢なわたしを、人は何故救ってくださるのでしょうか。
どうして友達になってくれたのでしょうか。
どうして愛してくれたのでしょうか。
わたしは、これからは、そういう人の心を裏切らない自分でありたい。
ちっぽけでいい。小さくていいからキレイなわたしで居たい。


愛でしか人は救えない。病もまた然りです。

こんな幸せを与えてくださったみなさん、ほんとうにありがとうございます。
わたしはいまこれを、一人で泣きじゃくりながら書いています。


「よく頑張ったね。いいこだよ。」

わたしの奥に潜んでいた小さい女の子を抱きしめてくれたあなた。011
あなたのために生きて行きます。
それがわたしが辿り着いた、
しあわせのカタチです。

ありがとう。ありがとう。ありがとう。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ うつ病(鬱病)へ

| | コメント (4)

捕まえる機会

終電の時間が近づき、わたしたちはカラオケ屋を出て駅に向かいました。
Nさんはわたしを送って改札まで来て、わたしは終電前の二本の電車を見送って、恥ずかしげも無く涙をこぼしたまま彼に纏わりついていました。

『どこかに泊まる?』 Nさんが言いました。
ううん、と首を振りました。
『じゃあ、僕の誕生日に、会ってくれる?』
Nさんはそう言ってわたしの眼を覗き込みました。

その月に訪れる彼の誕生日を一緒に過ごすという事を、わたしは実は既に考えていました。Nさんが最も望むことだろうと思っていたし、それを叶えてあげることが彼には一番嬉しいことだと思っていたからです。
やはりNさんはそこを求めて来ました。
うん。コクリと頷いてそれを了承しました。
『本当に? 嬉しいよ。実は明日会う彼女に会いたいと言われてて当然期待してると思うけど、はっきり答えてなかったの。ヒメと過ごしたかったから…。』

『仕事、休もうか?』 わたしがNさんにして上げられることは、それが精一杯のことでした。刑務所に面会に行く日しか休まない方針で頑張ってきたのです。Nさんのために休むなんてそれは画期的なことでした。
『ううん、その日は休めない会議があるから、夜しか無理なんだ。ありがとうね。』

『あした、帰りにメールして。』
『…わかった。』
改札前の柱の影で彼にキスをして、わたしは終電に乗って帰りました。
駅に降り立って、わたしは精一杯虚勢を張ったメールを送りました。
 「理不尽に泣いたりしてごめんなさい。ヒメを大切にしてくれてありがとう。明日、楽しんできてくださいね。」
Nさんからはこんな返事が来ました。
 「理不尽とは思いませんよ。愛しています。やっぱりヒメを今夜捕まえておけば良かった。」

      捕まえる機会は、これからいくらでもありますよ。

わたしはそう返信しました。
けれどふとんの中で泣いて泣いて泣き疲れて寝て、翌朝は頭がガンガンしました。
わたしは店に遅刻してしまいました。
Nさんは、違う女性とデートに行きました。


 

| | コメント (0)

芽吹きの雪崩

やがて、涙の洪水を起こしているわたしに、先生のほうが気付き、焦点の定まらない目でこう言いました。
『心配ない。結婚しなさい。こいつはいいヤツだ。そうしなさい。』
見当違いのアドバイスにわたしは無言で首を横に振りました。
そんな話ではない、結婚なんてとんでもない。わたしは今この涙の意味がわからず、わかってしまうことも怖いのです…。心のなかでつぶやきました。

それが聞こえたのかNさんがふっと目覚めました。声も出さずに涙をこぼし、テーブルの上に水溜りを作っているわたしを見て、「なにー? どうしたのー?」と子供のように声をかけて来ました。
先生が立ち上がり、唐突に飲み会は解散になりました。酔っ払いながらも何かを察知したのでしょう。Nさんは寝起きの頭で何も把握できないまま立ち上がり、その店の前で二人とは別れました。

『どうする?』 二人になってNさんが聞きました。
『…二人になれるところに…。』 わたしが答えると、Nさんは時計を見て、じゃあカラオケにでも行こうかと言いました。
安いカラオケ屋の狭い個室のL字型のソファに座り、わたしはいきなりNさんに抱きつきました。
『ど、どーしたー?』
彼が驚くのも無理はありません。わたしたちは体の関係がありながらも、手を繋ぐことはわたしが拒否していたし、わたしから何かを仕掛けるなんてありえないことだったからです。いつも受身。抱きついたこともこれが初めてだったのでした。

抱きついたまま彼の耳たぶを吸い、ぽってりした唇にキスしました。
Nさんは完全引いていました。
『ねえ、どうしたー?』
わたしは涙をこぼしたまま、声を絞り出しました。
『勝手なことだと、わかってる。そんなこと言える立場じゃないことも、わかってる。』

『でも…あなたが他の人を抱くなんていやだ。あなたを失うなんていやだ。』
わたしはとうとう身勝手極まりない言葉を吐きました。

 「わたしには彼氏がいて、その彼が立ち直ったら結婚するの。」
 「あなたとはそれまでのお付き合い。心を開くつもりはない。」
 「あなたにとやかく言われる筋合いはない。」
 「わたしに踏み込んでこないで。気持ち悪いのよ。」
 「他のひとを試してみれば? あなた、なかなかいいわよ。」

わたしがNさんに向けて放った暴言の数々です。これを言ってきたわたしが、今その彼を失おうとしいてるのです。
それは余りにも当然でした。
わたしを愛している彼の心を踏み台にしてアグラをかいていました。彼はわたしから離れないと思い込んでいました。

ところが、年末あたりから、わたしの心にNさんの閉める比重が増え、わたしから会いたいと言うようになり、その内容も濃密になっていました。
そのことに自身気付いていながら、どうすることもできず、刑務所に面会に行く回数よりNさんとの逢瀬が増えていたのでした。

『どうしちゃったの、ヒメらしくないよ? 他の女性と付き合ってみたらって言ったのはヒメじゃない? ヒメは僕のものにはならないんでしょ?』
『そうだけど! …そうなんだけど…だからいかに勝手で理不尽なことを言ってるか、わかってるんだけど…。でも嫌なの!』

Nさんはため息をついてわたしを見つめました。
『さっぱりわからないよ。どうしちゃったの。』
『わたしにもわからない! いま一時の感情で言ってるのか、今後もこの気持ちは変わらないのかも、わからない! ただ、いやなの。それだけなの…。』
『…本気なら、嬉しいよ。僕が好きなのはずっとヒメ一人だったんだから。』
Nさんはわたしを抱き寄せ、頬の涙を掬ってから言いました。

『でもね、もう、スタートしちゃったんだ。誘ったのは僕なんだ。止めることは出来ないよ。』

それをわたしは理解しました。止められないし、止める権利はない。
そうなって当然です。数々の暴言を吐き、無視したり拒否したり利用したりしてきたのです。天罰が下って当然なのです。
今気付いてももう遅い。どんなに支えられ慰められて来たかを気付いてももう遅い。

全身の骨がきしむような悲しみが体を駆け巡りました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

涙の意味

3月が訪れました。
彼が逮捕されてから1年が経ちました。受刑者となってからは半年。
激動の1年でした。が、たくさんの人に救われ支えられ、わたしは幸せでした。
起こったのは、あってはならない出来事です。けれど、ここまで他人に助けてもらうということを初体験したわたしは幸福で、拘置所も、裁判も、自己破産も、刑務所についても、普通は経験しなくて済む事柄を沢山知りました。
わたしは、そういう苦しみを抱えている人の、役に立ちたいと考えたりもしました。

けれど、人ひとり救えていないわたしが、他人を救ったり幸せになど出来るはずもない。
『いままで、誰か一人でも幸せにしたことがあるの!』
これは怒りの余りわたしが拘置所で彼に吐いた言葉です。けれども言葉というものは、そっくりそのまま自分に返ってくるものでありました。
わたしは自分のことしか考えていない。傲慢な悪魔でした。

3月最初の土曜日、わたしはNさんの大学時代の先生と、同級生と、一緒に飲むことになっていました。
どうしてその場にNさんがわたしを誘ったのか、それよりも、なぜわたしはそれをOKしたのか、今もよくわかりません。行けば、なにをどう言い繕おうと、「彼女」扱いになるのはわかりきったことです。
「行ってもいいけど…彼女だなんて言われたくない。」わたしは傲慢に受諾しました。
それでもNさんは喜んで、早い時間から始まっている飲み会を抜け出して、仕事終わりのわたしを迎えに来てくれました。

アフタヌーンティの前で彼を待っているとき、気持ちが浮き立つのを感じました。初めての感覚でした。程なくNさんが現れて、わかりにくい居酒屋に連れて行ってくれました。
日本酒の豊富な居酒屋の4人掛けの席にわたしたちは向かい合って座りました、先生と同級生は既にかなり出来上がっており、単なるガールフレンドだと立場を説明する間もなく、日本酒がつがれました。

わたしが食べたいと注文したマナガツオの塩焼きを、Nさんは食べやすくほぐしてくれました。その姿を正面から見ていて、あれっと思いました。
この人って、なかなか素敵な人なんだ…。
あまり正面から顔を見たことがなかったので気付きませんでした。

いえ、わたしの感覚が、急激な速度で変化したのかもしれません。

酔っ払い男3人とわたしは、河岸を変えるべく店を出て、繁華街の中心に向かいました。
そこで腰を落ち着けると今度はワインを注文し、がばがばと飲む先生の姿に驚いていると、今度はわたしの左に座ったNさんが、「あのね…、」と切り出しました。

前の二人はなんだか酔って言い争っており、こちらはこちらで話が始まりました。
『ここのところさ、中学の同級生の女性からメールが来ていて、やり取りしてるって、言ってたでしょ。』
Nさんは回らないロレツで説明しはじめました。
『実はね、その彼女と、何回か会ったの。それでね、明日もデートの約束してるんだけど…』
そこでNさんはわたしを見つめました。
『あしたは、その…そういう仲になると思う。そう誘ったらOKだった。』

えっ…。
わたしは目を丸くしました。メールをやり取りする相手が増えたことは知っていました。頑張ってね、と応援したのはわたしでした。
だけど、会っていたなんて。そして明日、体の関係を持つという。彼から誘って…。

『よかったじゃない、頑張りなよ~!』 わたしは元気に答えました。
『ありがとね。キミがいつも、ほかを試してみなよって言ってくれてたから勇気が持てたよ。いくら好きでも、キミは僕のものにはならないんだもんね。だから僕は…』
そこまで言うと、Nさんはわたしの左腕に額をガクッと落として眠ってしまいました。

あした、この人は、他の女性を抱くんだ…。

腕に彼の頭の重みを感じつつ、わたしの両眼から、なぜか滝のように涙が溢れてきました。
声を立てることなく、微動だにせず、ただ滝のように涙があふれました。
その涙の意味が、わたしには理解できませんでした。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

わたししかいない。

あきらかにわたしは異常をきたしていました。
塀の中に彼氏がいる。やるべきこと・出来うることはすべてやってあげた・あとは、彼が戻って来るのを待つだけ。もうやれることは何もない。
できるだけ節約して、貯金しながら彼の出所を待って…。

そしてどうなるの? 

わたしの頭の中では、刑務所に迎えに行くシーンまでしか思い描けないのです。
そのあとどうなるの?

6000万を超える借金。一生続く返済。旅行にも行けず娯楽も無く、ただ働いて返すだけの一生。
それを一緒に背負うと決心して内妻になり、身元引受人になり、荷物も全て預かって管理している。覚悟したから。決心したから。
そういう大きな決心は、揺らいではいけない。崩れてはいけない。助けてくれて、応援してくれてる人がいっぱい居るのだから、頑張らなくてはいけない…。

一人で立っているのは辛いことです。支えがいっぱいあっても、朽ちた大木のように中が空洞では…。
だけど捨ててはいけない、わたししかいないのだから。彼にとって、わたしだけが頼りであり、希望なのだから。

そんな心情を、弁護士にだけはちらりと洩らしていました。
彼女は最初から「無理だしその価値もない。」といい続けている人なので、驚きもせず、「ふむ、やっと気付いたかな?」ぐらいの反応でした。けれども、他に付き合っている男性がいて、その人を逃げ場所にして、快楽と精神の安定を得ていると、そこまでは言えませんでした。しかもその人に対して好意を持ち始め、毎日多くのメールを交わし、自分から会いたいと言っていることなど、とても言えませんでした。

わたしは2月末に無理を言ってNさんに会ってもらいました。
前日からNさんは時間をカウントダウンし、「あと18時間だね。」 「あと10時間で会えるね。」 「あと3時間。早く会いたいよ」とメールをよこし楽しみにしてくれていました。
そしてその夜は、わたしが彼氏とはしたことの無いような合歓をしました。
二度と離れられないような濃密な交わりをしました。

わたしはどうなってしまうのだろう…。

週に3~4通刑務所に出していた手紙が、週一通になっていました。
そして春の雪崩は、目前に迫っていました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

まんなかの空洞。

わたしは月二回淡々と静岡に面会に通い、月に2~3度Nさんと密会していました。
お互い独身ですからいいはずなのですが、わたしには常に後ろめたさが付きまとっており、「密会」と表現するのがしっくりしました。

Nさんからのメールは常に愛に溢れており、日に何度もやり取りする中で「またメールしてね。」と書いたわたしの言葉に彼はいたく感激し、「もっとしてもいいんだね!」と喜びを表していました。

バレンタインの3日後、Nさんとは約束どおりに会いました。前日自分の仕事で徹夜したわたしを気遣い、やさしく丁寧に愛してくれました。
あいしてると、耳元で呟かれ、氷河が溶けるように涙が滲み、バレンタインの日のことなどすぐに忘れてしまいました。
わたしはこの人に、確かに愛されている。
彼氏が居ると知っていながら、そして何か不遇であることも察しながら、「愛している・繋がっている」と言い切る。
Nさんは、強い人でした。

2月二回目の面会に行くとき、わたしは体調のせいか朝から切なくて、彼に面会しても意味無く涙がこぼれました。
帰って来てからもその切なさは消えず、しょんぼりしているとNさんから「帰ってるの?」とメールがありました。彼氏に会いに行くことは伝えてありました。
切ない気持ちであると返事をすると、
「その切ない気持ちを僕に吐き出すことはできないの?」 と返信がありました。

吐き出すことは出来ない。しかもなぜこんなに切ないのかわからない。わたしは自分を持て余していました。
逢いたい。Nさんにそう伝えました。
その言葉がどういう事を引き起こしていくのかを、考えてはいませんでした。
ただ、逢って抱きしめて欲しかった。
どんなに助けてくれる人がいても、どんなに会う相手が沢山いても、わたしの中心は埋められていませんでした。

真ん中が埋まっていないドーナッツのような心は、ただ外側に向かって膨張していくしかありません。しかもそれには、鎧を着せておかなくてはいけない。

塀の中にいる人に対して、出来うる限りのことをした。もうあとは待つのみ…。
なのにわたしの中心は、空洞化を始めていました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

失われ行く温もり

(悪魔ー!に投票してくださった皆さん、アリガトウゴザイマス。)

バレンタインの夜は、前出の女友達と飲む約束をしていました。お互いバレンタインに過ごす男が居ないことを嘆きつつ…。
しきりにチョコレートをねだって来る、会の仲間のMさんのメールは完全無視しました。あの無残な誕生日以来、わたしの心のシャッターは開けられることなく、ことさらなおざりな返事を返すだけのメールのやりとりになっていました。

その日、女友達と会うことは、Nさんには朝まで言わないことにしました。Nさんこそわたしと過ごしたいに違いない。それで友達と会うと洩らしたりしたら、『合流したい。』と言いかねない。
わたしは当日の朝の定例メールの中でやっとそのことに触れました。

ところがNさんは、バレンタインだから会いたいとも言わず、シラっと
『それは良かった。彼女によろしく。』 と返して来たのです。
へっ? と、わたしは拍子抜けしました。
なんで? なんで会いたいって言わないの? なんで「僕も一緒に!」って言わないの?

夕方メールをしたときも、Nさんは全くそこには触れず、違う話題で返して来ました。
どゆこと…?

腑に落ちないまま、わたしは彼女と年末に会った店で待ち合わせ、楽しい酒を飲みました。以前会ったNさんのことが彼女は気になるようで、しきりに聞くので、「ボーイフレンドだよ、まあ今は一番トップの座かな。」と答えると、「ボーイフレンドってさ、体の関係とかは無いってこと?」と追求されてしまい、わたしはつい「…ある…。」と白状してしまいました。
「ちょっと、どういうことよ、彼氏居るって言ってたじゃない~!」

ソウデス。 今は塀の中にいます。 
言えないセリフを噛み殺しました。

「ねえ、いい男いないか聞いてみてよ~。」
いいよ、と言ってわたしはNさんにメールをしました。もう家に居るはずで、すぐに返信が来るはず。
ところが、待てど暮らせど、返事は来ませんでした。そんなはずはない。彼は仕事中でなければ、毎日朝に昼に夕方、夜とメールをして来るし、わたしからしようものなら、喜びを包み隠さず満載にした返事をよこすはずなのです。

彼女との宴も終わる頃、Nさんではなく、友人が珍しくメールをして来ました。
「残業終わり。今帰りです。」
わたしはそのメールに飛びつきました。今友達と飲んでて、もう終わりなの。飲む?
「本気なら今すぐ電車降ります。」
数秒でそう返事が来て、わたしは女友達と別れ、友人が降りた駅まで走って向かいました。

「橋まで迎えに来て!」という“姫”メールに苦笑いを浮かべて、友人は真冬の橋の真ん中で待っていました。
その腕に絡みながらも、わたしの頭の中は、返事をよこさないNさんのことで一杯でした。

何ごともなかったようなメールが戻って来たのは、夜中でした。
わたしより優先されるものが、そのときのNさんには起きていたのでした。
わたしはあまりにも傲慢でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

愛情のシャワー

2006年の年が明けました。
田舎から帰京する新幹線を途中で降りて、静岡刑務所に向かいました。
この年は豪雪で、久しぶりの大雪に実家も大変なことになっていましたが、相変わらず静岡は暖かいのんびりした街でした。

刑務所では通常は麦を配合した飯が主食ですが、元旦には
雑煮も出て簡単なおせちも付き、3が日は白米が振舞われるそうです。
年末の天皇誕生日には
菊花最中が、クリスマスには小さいケーキが配られ、大晦日にはお正月用の菓子が配給され、夜は12時まで特別にテレビの視聴が許可され、それを見ながら年越し蕎麦(カップそば)を食べたとのことも後の手紙で知り、刑務所とは冷暖房が無いだけで、ある意味病棟よりも恵まれているのではないかと感じたくらいでした。

犯罪者の
人権・人間として最低限の生活。これが刑務所内では守られ保たれています。
もちろん屈辱的なことが沢山あり、雑居だと毎日トラブルに悩まされ眠りも妨げられるでしょう。けれども、全員が犯罪者です。被害者の方の中には、
を傷つけられ、家庭を破壊され、最低限の生活どころか、人としての尊厳すら危うい人々がいることでしょう。

刑務所は、罰を与えるところではなく、
更生を促す施設です。けれど、人を更生させるのは、罰や規則ではないのです。救えるのは愛」によってのみなのです。
大の男の人生を背負い、まるで
シャワーのように愛を浴びせ続けないと更生は不可能だと考えているわたしは、その重圧に喘ぎだしました。

店はハイシーズンに入り、面会に行く日のみ休みを許可されたわたしは、実質休み無しで出勤しました。毎日フラフラでした。夜、彼に手紙を書いていても、自分の仕事でイラストを描いていても、コックリコックリしてしまい、意味不明な線が紙の上に走っていました。

店の売り上げは順調で、また、わたしの生理も綺麗なラインで訪れていました。

Nさんとは、月に2回、夜会うのがやっとでしたが、朝・昼・帰宅時・夜と、絶えずメールを交わしていました。一年前にはあんなに激しくしていた喧嘩もあまりしなくなり、毎日もらうねぎらいや心配のメールを楽しみにしていました。

けれど、恋人にはなれない。わたしには守るべき人が居る。Nさんのことは「体の関係のあるボーイフレンド」でしかなく、自分の内面をさらけ出したり、一緒に何かを見て楽しむということは全て避けていました。
Nさんはいつも
、「好きだよ。愛しているよ。」と言ってくれました。それこそシャワーのように…。それをわたしは「はいはい、ありがとね。」と受け流していました。
わたしには彼氏がいる。いまは余り会えないけど、彼とは深く関わっており、彼を守っていかなくてはならない。
彼と一緒に暮らせる日が来たら、
この関係はもう終わり…。
「あなたも誰かと付き合ってみたらいいんじゃない? わたしはあなたのものにはならないんだから。」

そう言いつつもずるくNさんを利用していたのでした。
何も与えず、ただ、与えてもらうだけ。Nさんのわたしへの愛情を利用し、
寂しさ紛らわし、現実逃避できる場所、女として大切される場所として、わたしはずっと彼を利用し続けてきたのです。その心をどんなに傷つけているかには考えも及ばず…。

そして事の発端は、
バレンタインデーの夜に起きました。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

せつないきもち。

風邪を押さえ込んで出勤したわたしは毎日ギリギリの体調で、帰りの電車で立ったまま寝てしまい、ひとり膝カックン状態になったこともありました。
それでも人に会う予定は入れ続け、その日もある女友達と食事をする約束をしていたのですが、Nさんから連絡があり、来年のカレンダーで素敵なのが会社にあるからあげようと言われ、友人と会う前、ほんの30分のつもりで待ち合わせました。

彼は企業に勤める化学者ですが、本社にいる日と研究所にいる日があり、本社はわたしの勤める店とも近く、歩いて行ける距離です。
この月、既に2回会っているので、そう久しぶりというわけでもないのですが、Nさんに会うと、わたしは癒されました。彼はわたしが抱えているものの事実を知らないので、わたしはその部分を切り捨て、ただの女として社会人として話ができます。それが楽でもあり、また、バーチャルでもありました。現実から逃避するにはここしかなかったのです。それがたとえ裏切りであっても…。

『一緒に付いて行っちゃ駄目かな。』
Nさんはわたしと友達との食事に参加したいと言い出しました。
彼氏ではない男性を同席させるのはどうだろう…とも思いましたが、何となくもう少し一緒に居たい気持ちもあり、わたしは友達に可否を聞きました。
【全然オッケー。ぜひ連れてきて!】 陽気で人見知りをしない友達は快諾してくれました。
わたしはNさんとともに待ち合わせ場所に向かい、彼女と落ち合いました。

わたしを挟んで3人でカウンターに座り、彼女が陽気に話すのを、彼は身を乗り出して聞いてあげ、彼女は上機嫌でしたが、わたしは軽く妬いている自分に驚きました。
この人は、わたしを好きで、わたしだけを見ていて、いつも傍にいる人だと勝手に思っている節があったようです。
やがてボトルが空き、彼女が頻繁にトイレに立つようになり、青ざめて戻ってきたのに気付いて、宴を早く切り上げて送っていくことにしました。
Nさんも、まるで反対方向なのに付いてきてくれると言い、心強く思いました。

年末の地下鉄は込み合っていて、彼女はドア近くでしゃがみこんでしまい、わたしはバッグの中から手探りでポリ袋を探し出すと、彼女に持たせました。
それは役に立ち、最寄駅に到着してベンチに座らせると、彼女の顔にはかすかに赤みが差しました。
安心して見送ると、わたしとNさんは戻る電車に二人で乗りました。

乗り換えの改札まで今度はわたしを送り、柱に寄りかかって、何となく離れがたく、わたしたちは話をしました。彼はしきりにわたしに触れ、帰したくないとつぶやきました。なぜだかわたしは泣いていました。
Nさんに愛されると、何だか泣けるのです。その涙を、Nさんは指で拭ってくれました。

会いたいと言われ、30日までわたしは仕事だし、元旦にというわけにもいかず、どうしても会うなら大晦日に時間を作るしかないね、ということになりました。

その年の最後に会ったのはNさんになりました。
まもなく明ける新年に、思ってもいない展開が待っているとも知らず、ひととき、抱きしめてもらって全てを忘れました。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

何のために頑張る?

熱を押して出かけたわたしは、予定していた帰省切符も買えず、中央郵便局にも寄れず、ただやっと静岡に辿り着きました。
この年最後の面会になります。
静岡では、ベビーカーに乗った赤ちゃんは裸足で、風邪のためコートの上にショールを羽織っていたわたしは奇異の目で見られるような暖かさでした。

面会室で向き合い、わたしは黙って彼の言葉を待ちました。

彼の答えは、
【NO】でした。

『ヒメの気持ちはありがたいし、甘えたいという気持ちも確かにある。けれど、最初に返済をするのは、ヒメではなく自分であるべきだと思う。真面目に勤めて、きっと早く出られるよう頑張るから、ヒメは自分の生活と体を大事にして欲しい。返済は、戻ってからコツコツとして行くから。』
これが彼の答えでした。

わたしは黙って涙を流しながら聞いていました。
3人の
【NO】が出揃った今、わたしは実行に移すことはできません。
初公判での無念を、もっと何とかできたのではないかという後悔を、晴らす手立てはもう無くなりました

「供託」
が、おそらくわたしに出来うる最後の力添えだったのです。
わたしは了解し、力なく立ち上がりました。そうだ、おそらくは3人とも正しいことを言っている。わたしは、自己満足のためにやってみたかっただけなのだ…。


これで終わり。 もう、出来ることは無くなった。

その喪失感に打ちひしがれ、わたしは帰りの新幹線で眠りに落ちました。
品川で降りて、乗り換える足がふらつきました。
翌日から、おかみのいる店に戻っての仕事です。頑張らなければ…。

けれど、その夜から熱を出し咳もひどく、わたしは店を2日も休んでしまいました。2日で起き上がれたのは幸いと、疲れが全く抜けないまま無理矢理出勤しました。

けれども、もう一体
何のために頑張るのか、わたしは見失って来ていました。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

二人の【NO!】

まず、弁護士からメールで返事が来ました。
【わたしは、正直言ってそれがどれほどの効果があるのか?と思う。それに今のあなたのその日暮らしのような生活の中で、月々たとえ5000円ずつでも、出費が増えるのはキツイんじゃないかな。面会にも月2回行くのでしょう? もしも月々5000円残せるのであれば、彼が帰って来た時のために自分で貯金しておくほうがいいと思う。ただ、月たった5000円の供託で、ヒメが納得して精神が安定するのであれば、わたしが手続きとかはやってあげるよ。】

彼女は最初から、わたしと彼とにハッピーエンドは無いと一貫して考えているようでした。彼のことを信用してもいないし、わたしが大役を果たせるとは全く思っていないようでした。
しかしそれは、わたしへの慈愛に満ちた思いだということをわかっていたので、わたしはそれをいつも笑いながら受け止めていました。
彼女の答えはNO。しかし、わたしの精神状態を第一に考えた、慈しみの答えをくれました。

そして友人には、会議の帰りに駅のホームで意見を聞きました。
答えは強いNO。
『まず一つは、‘刑期を軽くすることが良いことなのか’ってこと。キミの気持ちは分からなくはないが、果たしてそれが正しいかを考えなくちゃいけない。もう一つは、自立していない苦しい生活の中で、月々の出費が増えるのはどうかということ。』
…返す言葉がありませんでした。
『弁護士先生は、どう言ってる?』
『彼女も、その方法は感心しないって…。でも、それでヒメの気が済むなら、手続きはやってあげるよって…。』
今度は友人が黙りました。

わたしは、事件発生以来ずっとこの二人を頼り、相談し、その意見が一致したことを選択するように心がけていました。自分に正常な判断力が備わっていないと自重したためです。二人ともがNOなら、行動には移せない…。
同じように、わたしを介して、弁護士と友人は、それぞれの意見を気に掛けていました。
弁護士が、答えはNOながらヒメのためならやってもいいと言っている。それを知って友人は迷ったようでした。

そこにボスがやって来て、どうしたと言うのでわたしはもう一度説明をしました。
涙をこぼしているわたしを見つめたその目に、一瞬揺らぎが見えて、隠れました。
『いいじゃないか、やれば。』

わたしは友人を振り返りました。ボスの意見は尊重される。反対意見を言っても突っ掛かって行っても、ボスの意見はいつも尊重されるのです。
友人はこう言いました。
『次に面会に行って、本人がそうしてくれと言うのであれば、やったらいいよ。しかし、俺はあくまでも反対だ。彼のためにならない。』

わたしは帰宅してすぐに手紙で「供託」という制度について説明し、それをやりたいと書いて出しました。

翌週、その年最後の面会に向かいました。わたしは風邪をひいており、薬を飲んで出かけました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

供託/ラスト・トライアル

待ち合わせ時間はもちろん過ぎてしまっていました。
自分がどこをどう間違ったのかがどうしても理解できず、仕方なくわたしはその団体の事務所に電話をかけて、事情を説明し、携帯番号を知らせました。

ほどなく、お会いする約束のH氏から電話がかかってきました。
『そこから何が見えるか言ってみて。看板とかでもいいから。』と言われました。
『大きな、石造りの鳥居を背にして立ってます…。』
それが
靖国神社であることは自分でも分かっていました。けれど、わたしはわたしの中の磁場と地図が狂って、もうどうしようもなくなっていたのです。
『ええっ、なんでそんなところまで行っちゃったの? そもそもどこで地下鉄降りたの。』
『ちゃんと神保町で降りたんですけど。』
『違うよ。小川町で降りなきゃ。』

わたしは、降りる駅を間違えたのです。しかも、待ち合わせた銀行はいたるところに支店があります。自分の
失態に泣きそうになりながら言いました。
『銀行の前にいるんですけど…。』
『支店名読んでみて。』
『九段北支店…。』
待ち合わせたのは、小川町支店の前です。
降りる駅を間違え、さらに反対方向に彷徨ってしまったため、わたしは通算二駅分の距離を戻るハメになりました。
あんな寒い日に、どうしてタクシーに乗らなかったのでしょう。
わたしは襟元を掻き合わせながら靖国通りを二駅分駆け足で戻り、ようやくその事務所に辿り着きました。


わたしがH氏に会いたかったのは、お互いの知る事情を共有するためと、もうひとつは、その人が保護司をしているゆえの、何か知恵があれば頂きたいと思ったからです。
一通り話が済んだあと、H氏はこう切り出しました。

『供託制度というものがあるんです。』

キョウタク? 聞きなれない言葉に首を傾げると、漢字で書いてくださいました。

それは、負債・返済のある受刑者に代わって、身元引受人がその被害者に対して、月々一定額の返済をしていくという意味の法制度だそうです。
『それはどういう
効果がありますか?』
勢い込んでわたしは尋ねました。
彼の被害者への返済額は、横領した5400万円と、民事裁判の費用一切です。もちろん、生きている間に返せる額だとは思えません。
供託は、実際は被害者の方への返済ではなく、
法務省に対して、返済金を積み立てていくという制度です。その事実は法務省から保護監察官、刑務所に伝えられ、受刑者を待ちながら返済を始めているという引受人がいるという事実がより明確になります。
その印象は、きっと
刑の軽減に繋がるに違いないと、H氏は教えてくれました。
金額の多少は問わないとのことでした。


これをやろう。
わたしはすぐに、友人と弁護士に相談をしました。

しかし、二人の答えは、表現こそ違うものの、
【NO!】でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

これでは壊れる。

当時の手帳を見ながら毎回記事を書いています。
『これでは倒れる。』…正直そう思って呆れます。これ以上無理と言うぐらいに人と会い、あらゆる予定を詰め込んであるのです。
現在ウツ病で療養中で、ゆったりとした時間のなかで過ごし、全く出かけず人と話さない日が多いことと比較すると、なんて無茶なことをしていたのだろうと思います。
壊れて当然です。

辛さ・寂しさを紛らわす術を知らなかった。いえ、そんなものは無いのでしょう。こんな風に抵抗してカラ元気で飛び回るか、すべて諦めて受け止めて沈んでいるか、どちらかしかないのかもしれません。

ある一日(平日・仕事オフ)などは、朝イチに大学病院に行き、午後は人と会い、その帰りに以前の職場に寄ってかつての同僚と話をし、夕方自宅に戻って着替えて、研究会に出かけ、その後研究会の忘年会に出て夜中に帰宅しています。

こんな目茶苦茶な生活をして、時々はNさんに逃げ込んで、その年は暮れようとしていました。

師走も半ばになった頃、終業後わたしは彼氏の知り合いに会いに出かけました。
彼が参加していたある団体の、同じく副会長をしていた男性で、その人は保護司もやっていました。
彼が逮捕された当時、その団体には情報が行かず、会議に来ない彼をいぶかしんで、たまたま取材の電話をかけて来た新聞記者を問い詰めて初めて、事件を知ったそうです。

彼もその人も、その団体の全国の母体団体の理事に名を連ねていました。
東京のほうは、なんとか出来る。しかし、母体である全国のほうの団体に、逮捕を告げず脱退させるのに、言えないような苦労をしたそうです。
彼は役員の選挙に立候補しており、その選挙の直前に消えたのです。不審がる声を抑え、問い合わせに対応するのも、全部その方がやってくれたのでした。

待ち合わせをしたはずの銀行前に、その人は居ませんでした。
違う支店だったかしら?
わたしは寒風吹きすさむ都心の大通りをさまよいました。
おかしい。何を間違えたのかわからない。道に迷った経験をあまり持たないわたしが、今どこに居てどっちを向いているのかわからない。

やがて行く手に、大きな石の鳥居が見えたとき、わたしが完全に方向を失っており、とんでもないところまで来てしまったことにやっと気付きました。

ビル風が吹き降ろす凍える街で、わたしは汗だくで立ち尽くしていました。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ うつ病(鬱病)へ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

無残な誕生日

【皆さんの投票による予想は当たりです。】

初冬の静岡は東京よりはるかに暖かく、あらためて極寒の地の刑務所でなくて良かったと感じる日よりでした。
網走を始めとする極寒の刑務所で、昔脱獄が多かったのは、厳しい寒さに耐えかねてという理由があったとされています。現代ですら、静岡の以西、滋賀の刑務所から出所した某氏がインタヴューに答え、足の指が凍傷になったと言っていました。

くれぐれも皆さんによろしくという伝言を彼から受けて、わたしは東京に戻り、いつもの居酒屋に一番乗りをして、真ん中に座ってみんなを待ちました。
この頃、ボスに三度言われて、わたしは、クリニックに連れて行ってくれた仲間
さんへのメール拒否を解除していました。以下の条件付です。
・朝8時前、夜11時以降はメール禁止。
・自分が仕事中・家族と一緒の時のメールは禁止。
・無理な誘いをしない。
・返信を強要しない。


さんはそれを守って、以前のようにむちゃくちゃなメールをしたり、体を要求してくることは無くなって、朝・昼・帰宅時に律儀にメールをしてきました。
世話になっておきながら、冷たくあしらうなんてひどいですが、Mさんは既婚者です。わたしには彼がいます。そもそもの要求の方向が間違っているといえばそうです。

わたしの次に女性メンバーが到着し、二人でMさんの話をしました。やはりわたしがメールを解禁すると、彼女へのメールはパタッと無くなったとのこと、あからさまだよねえ、と言っているところに、思いがけず
Mさんが到着しました。
思いがけず、と言うのは、彼は必ず遅れて来る人だからです。いませんか?そういうタイプの人。遅れてきて
注目を浴びたいのでしょう、そのときは主役になれますから。
なので当然Mさんは遅れてくると思い込んで油断して話していたのです。
「あっ、来ちゃった…」という気まずいムードが伝わったかもしれませんでした。


やがて宴が始まり、わたしはみんなの真ん中でまた姫サマのごとく振舞っていました。
わたしの隣に座らせてもらえなかったことにも、Mさんは露骨な不満を表していました。
そして、ふとわたしが言った言葉が、彼の
逆鱗に触れたのです。
『なによぅMちゃん、また話聞いてない~。』 『いや、俺は知らない。』 『またそれ~? 忘れたんでしょ、知らないじゃなくて。あなたが居る会議で出た話だもん、知らないわけないじゃん。』
そうしたらMさんは
烈火の如く怒り出しました。

わたしの言ったことは事実です。前回の研究会の会議で決定したことを確認しただけなのに、会議に出ていたMさんが知らないはずがない。恐らくは忘れたか、聞いてなかったのでしょう。ただ、わたしの言い方が気に入らなかった。ガマンにガマンを重ねていた気持ちを、当のわたしに向けて爆発させ、攻撃してきたのです。
怒り出してからどんどんヒートアップしていきました。そのうち治まるだろうと見ていたのですが、無言無抵抗のわたしに対して言葉の攻撃は静まりません。
友人と、若いメンバーがなだめにかかりましたが駄目です。
男の人が怒るとこんなになるんだ…。非常事態にわたしの心には
シャッターが降りました。それと同時に、以外にもぽろぽろっと涙がこぼれました。

悲しいのは、怒鳴られていることじゃない。
こんなときに、身を挺して庇って
守ってくれる男がいないということなのだ…。

仕事の電話で席を外していたボスが戻って来て、瞬時に空気を読むと、Mさんを一喝し、ようやく事は終わりました。


カエリタイ。ヒトリニナリタイ。

シャッターが下りた
心の中で誰かが泣いていました。
けれど、わたしのために開かれた誕生会。帰るとは絶対言えません。このまま、なんでもなく楽しいフリをしなければ…。
喰いしばる気持ちで、わたしはまた
【姫】の役を演じ続けました。
カラオケにまで行って、姫じゃない、小さいほうのわたしは、ズタズタになって帰宅しました。


甘えたい。守られたい。すがりたい。
わたしは全然強くなんてない。崩れるのが怖くて詰め込んでいるだけなの。
家に帰ってもくつろぐスペースすら無い…。

悲しい誕生会は終わりました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

明治からの脱却?

受刑者処遇法が100年ぶりに改正され、この翌年の6月から施行されることが決定しました。(新監獄法)
刑務所は、ようやく明治時代からの脱却を図ろうと踏み出したわけです。
彼がその全文をよみたがったので、わたしは友人に頼み、プリントアウトしてもらいました。
58ページにも及ぶ大量のコピーに恐縮しながらわたしは受け取りました。
そして、読んでみてがっかりしました。

新聞やネットの見出しには、【親族だけではなく、友人も面会可能に!】とか、【土日も面会が出来る】とか【優良受刑者には外泊も認められる】などどあったので、期待していたのです。

ところが実際は、『更生または社会復帰のために特に必要と刑務所長が認めた知人にかぎり、面会を許可する場合がある。』、 『やむを得ないと認められた場合に土曜または日曜の面会を申し込み制で認める場合がある。』、 『交通刑務所などの一部開放的な刑務所に於いて、出所が間近で社会復帰のために必要と思われる場合には、外泊を許可する場合もある。』……
わたしにはこんな風に解釈できました。
つまり、手放しで友人との面会や土日の面会がフリーになるわけでは決してなく、今までは「断じて許されぬ」だったのが、「場合によっては認められなくはない」に、緩和されたということでした。

唯一即効で彼にも関係してくるのは、手紙の発信の制限がゆるくなり、2級なら現在月2回のところを、月5通まで許可されるという項目でしょうか。
けれども、正直手紙を書きなれておらず、検閲を意識して自分の気持ちを素直に吐露できない人や、手紙を出す相手が居ない人には、あまり意味がないとわたしには思えました。

彼からの手紙は、いつも事実の羅列でしかなく、決まりきった同じ生活を繰り返しているだけの受刑者に、豊富な話題などあるわけがありません。
昔のこととか、わたしとの思い出話とか、現在の心境とか、なんでもいいから書いてねと常に言ってあるのに、彼にはそのどれもが不可能なようでした。

わたしは、友人からもらった分厚い紙の束を、刑務所の彼宛に送りました。
手紙には、「内容について知っていることを、他の受刑者の方たちに自慢げにしないこと」、と書き添えました。
一回りも年上の彼に、言い含めなくてはいけないことが色々ありました。


その年の誕生日は、仕事に出て、夕飯も自分で作り、ひっそり過ぎました。
3日前にNさんと逢って、お祝いをしてもらっており、誕生日の翌日には休みが取れたので、静岡に面会に行き、夜はグループの飲み会で『姫スペシャル!』という予定になっていました。
しかし『姫スペシャル』は、無残なものとなってしまいました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

背負えるか。

出てきたのは彼あての給料明細。数か月分。収入は月に数万円。
「何これ…どういうこと…。」

そしてそのわけが飲み込めた時、わたしはダンボールに突っ伏して泣きました。

彼は、働いていたのです。早朝、
ビルの掃除夫のアルバイトとして。
時給たった
800円で。

ヤクザと付き合ってとり付かれるまでの順調だった彼の会社は、月200万以上の売り上げがあったと裁判で聞きました。横領なんてしなくても、雇っていたのは一人だし、都心の事務所は顔見知りから借りていたので家賃は9万円。楽に暮らしていける身分だったはずです。
彼はお金に困ってではなく、自分の虚栄心を満たしたいがために横領をしたのです。女性にモテたい、ちやほやされたい、ヤクザからあがめられたい、いいカッコしてお金を貸したりしたい。そんなくだらない理由で、一番良くしてくださっていた大切なお客様の信頼を裏切り、横領をし、民事裁判で敗訴してからも一円も返さなかった…。
転落の人生でした。

けれど、時給800円で早朝掃除夫をしていた彼が、わたしは不憫でした。わたしの職場の近くに夕方来たことが何度かあったけど、そういう日は昼食を取っていないことが匂いでわかりました。
安い居酒屋で飲み食いさせ、それとは別にお札を渡すと、彼はスンナリ受け取りました。本当にどうしようもないときに、来たのでしょう。

自業自得。そう言われればその通りでしかありません。
けれども彼が不憫でした。切ない思いで胸が痛みました。

人一人の人生を背負うということが、こんなにも重大で困難なことなのかと、身に染みました。背負えるだろうか希望は、あるのだろうか。

泣き疲れて友人と弁護士にメールで報告したところ、それぞれ返事が返って来ました。
友人はこう返信して来ました。
『清濁合わせ飲む覚悟じゃなかったのかな? うろたえないで、しっかりしていないと。新受刑者処遇法のプリントアウトできたから、送ろうか。それとも明日なら会えるけど。』
わたしは翌日受け取りに行くことにして御礼を伝えました。
弁護士からは、
『そうか、それが切ないと感じるのだね? しかし男は働くのが当然。掃除夫だろうが皿洗いだろうが関係なし。しかもあんたが泣いてあげるほどのことじゃありません。』と返信がありました。

そう。その通りです。だけど、切なくて不憫でたまりませんでした。

以前来たダンボールで押入れは満杯。押収品は整理して箱は減らしたものの、部屋に積み上げておくしかなくなり、くつろげる場所は皆無になりました。
布団もしまえず、扇風機と電気ストーブが両方出たままになりました。
そして暦は師走に入り、家に居たくないわたしは、体が小康状態なのをいいことに、またどんどん予定を詰め込み始めました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

押収品還付

束の間どころか、薬で止まったと思われた出血はひるまず、翌々日にはまたじわりと襲って来ました。しかし途中仕事を休むことも出来ず、検査結果を聞く都合もあって、二週間待って大学病院に行きました。
幸い癌細胞は検出されず、卵巣の腫れもなく子宮筋腫も成長していませんでした。
なのにどうして…。
じわりじわりと不気味に出血は続いていました。

この時点でもし誰かが、わたしがおかしいことに気付いてくれていたら、物語の展開は変わったかもしれません。

二倍に増やされた薬を飲みましたが、その夜にはまた大出血に見舞われ、11月二回目の面会はまた、フラフラの状態でした。おかげでわたしは静岡駅のトイレ事情には精通しました。
予定を2~3キャンセルして、体を休めました。今思えばこうすれば良かったのです。疲れたら、具合が悪かったら、体や心を休めれば良かったのです。なのにわたしは、倒れないようにひたすら走っているばかりでした。
この回の大出血は一週間でフッと治まりました。

そして、次の山が訪れました。
東京地検から押収品が全て返却されてくることになったのです。携帯にかけてきた電話で、証拠品還付係の人は恐縮していました。

『11箱ですかっ!?』
わたしが責めるような口調で問い返したからでした。身元引受人である以上拒めないし、拒めば処分されてしまうものです。
事務所から送られてきた残品よりも、必要と思われるものがたくさん詰まっているはずでした。
わたしは引取りを受諾し、月末の日曜、それらはやって来ました。

60センチ角のでかい箱が最初に運び込まれました。腰が抜けそうになりました。これがあと10箱来たら座れなくなる…。
幸い、大きかったのはPCのモニタが養生されて入っていた箱だったためで、あとは小さいダンボールでした。
片っ端から開けてみると、証拠品なので、例えば領収書一枚・走り書きのメモ一枚が、チャック袋に入れられ、シールが貼られてバラバラと入っているのです。袋から出して詰め込んでしまえば、半分以下の箱に納められそうでした。

通っていたスナックで、豪遊させたおねえちゃんたちといやらしく写っている写真や海外旅行の写真にも、たくさん付箋が貼られていました。
馬鹿な男。
そうは思いましたが、腹立たしさはありませんでした。

なんでもない茶封筒に証拠品のシールが貼られているものがあり、中身を取り出してみて、はて、と首を傾げました。それはどこかの会社の給料明細でした。彼の名前です。
自営の彼になぜ給料明細…。

わたしはハッとしました。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

あさはかな覚悟

10月の初旬に面会に赴くと、彼は4級から3級に上がっていました。
こんなに早く級上げがあるなんて、頑張った甲斐があったとわたしは本心から思いました。
彼も中で頑張って耐えているのだろうし真面目に勤めているということを認めてもらえたのでもあるだろうけれど、快楽主義者であり計画性の無い彼の性格を考えると、規律だらけで快楽のない刑務所の中では真面目に作業をし、勉強をするしかなく、独居となって人と衝突することも皆無になれば、模範的な受刑者であるしかなかっただたろうと思います。

やはりここは、わたしとわたしを支えて下さっている皆さんの功績と感じました。
身元引受人が決まっており、支援するグループの存在があり、弁護士によって出所後の仕事のアテもある。こういう人はさっさと級上げしてさっさと出したいに決まっています。

どこまで何を分かっているのかは不明ながら、彼は自分の出せる手紙と、面会が月に二回になったことを手放しで喜んでおり、笑顔で歯磨きやら辞書の差し入れをわたしに頼むと、「大変だとは思うけど、月二回、来てください。」と頭を下げました。

もう、この身を売るしか手段はない。わたしは覚悟しました。

ところが、そう考えるのを見透かしたように、わたしの束の間の静寂は破られました。
また出血が始まったのです。
最初は、少し。少しづつ。
そして10月の二回目の面会に行ったその夜から、またあの大出血を起し始めたのです。
どうしてまた…。

身を売る決心は無残に砕かれ、Nさんの胸に逃げ込むことも叶わず、身体も精神も経済も困窮していきました。仕事は人員が足りず一人で店番の時が多く、枯れた桜の葉を掃きながら、自分を奮い立たせるのに必死でした。

なす術もないまま二週間が経ち、不気味な出血を諦めてわたしは大学病院にかかりました。
落合先生が診てくださり、首を傾げながら、「8月に検査したばかりなので大丈夫と思いますが、一応検査もしておきましょう」と細胞を採られました。先生も腑に落ちないようでした。
薬をもらい、すぐさまそれを飲み、二日後から、今度は束の間ではない、ほんの一瞬の静寂が訪れました。
それはたった二日半でした。

その間に、わたしは弁護士の運転する車で東名高速を静岡に向かいました。
わたしの体と経済の負担を少しでもと、「わたしの女神」は考えたのでしょう、車で面会に連れて行ってくれたのです。
わたしたちはたくさんのお喋りをしました。
ドライブも好きだし彼女自身も地方の刑務所の面会に行った経験はないので、勉強のためにもと言っていましたが、明らかにわたしを気遣っての同行でした。

御殿場のサービスエリアは、紅葉を見に箱根に向かう観光バスで一杯でした。
『こーんな秋のいい天気の日に、刑務所に行くのはアタシたちぐらいだねえ!』
わたしは慌てて彼女の口を塞いで、二人で大笑いしました。
楽しいドライブでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

止まると倒れる

(これは、受刑者処遇法が改正される前の話です。)

刑務所は、明治時代に制定された古い階級社会と制度がそのまま残った特殊な場所です。軍隊と同じ、もしくはそれ以上の古い歴史と矛盾に満ちています。しかし、軍隊と違うのは、整列して手足を振り上げ行進するのが、全員犯罪者だということです。
自分が悪いことをしたのだからしょうがない。
けれども、愛する恋人や息子が屈辱的な扱いを受けているかもと想像したら…。やはり心中は穏やかではいられないでしょう。

階級制度は、累進処遇制度といい、級が上がる毎に受けられる恩恵が良くなって行きます。初めて刑務所に入ったときは、4級からのスタートで、面会・本人からの手紙の発信は月に一回。3級に上がるとそれが月2回ずつに増えます。

そして2級に上がると、なんと立会い無し・仕切りのない普通の部屋で面会が出来るようになるのです。
「○番のかた、特別面会室にお入りください。」という刑務所のアナウンスを、わたしは憧れに満ちた眼差しで聞いていました。
もう、半年以上、彼の手にも触れていません。ですが、初めて面会に来たときに話をした女性の夫は、9ヶ月かかってやっと3級に上がったとのことでした。それなりの月日と、条件を満たして初めて、級は上がるのです。

「特別面会室」なんて、2級なんて、気が遠くなるくらい先の話でした。

ところが、3回目(つまり3ヶ月目)の面会のとき彼に、『身元引受人が正式に認定され、級を上げるための書類と作文(社会復帰後の仕事の展望について)が先日来たので、書いて提出した。ひょっとすると、来月3級に上がれるかもしれない。なので、来月は初旬に来て欲しい。二度面会出来るのなら、二度目来て欲しいから。』ということを言われたのです。
そんな早い級上げがあるのだろうか。自分は可能な限りのことをしたと思うし、担当保護司もきっと素晴らしい報告書を出してくれ、それが刑務所側にも回ったに違いない。
とは言え半信半疑でしたが、彼が無邪気に喜んでいるので、同じように喜びました。

彼は計算していない。二度来れば、経費は2倍になることを…。

けれども、本人のやる気を削がず、真面目に、そして意欲的に勤めさせるのがわたしの役割です。勉強に必要だと言うものは差し入れてあげなくてはいけないし、今考えてみると、以前アレを買って払っていないから払って来てくれという要求も、2度3度聞きました。


ある夜、職場の同僚の送別会の帰り、わたしは突然Nさんに電話をしました。
そういうことは初めてでした。彼からの電話はお断りしていたので、自分からもかけることはしていなかったのです。
彼は嬉しそうに電話に出てくれ、「どうした~?」と聞きました。
わたしはワッと泣き出しました。

何故泣いたのかわかりません。思えば、もう抱えきれなくなっていたのでしょう。
わたしは仕事に行き家事をし、彼氏に週3~4通の手紙を出し、静岡まで面会に行き、彼の関係者に連絡を取ってお詫びをしたり、本来なら彼が傍聴しに行ったであろう裁判や会議に顔を出し、合間にやっと、逃げ場所に忍び込むだけなのです。
どう考えても体を休められるのは月に2~3日。忙しさで寂しさを紛らわしても、それは発散にももちろん解決にもならず、安らぎを得る場所はありませんでした。

いきなり泣き出されて、Nさんは、「どうしたんだよ~。」と困っていました。
Nさんの優しい声を聞いて、わたしはコンビニの縁石に座り込んで、しばらくしゃくりあげました。

みんな、頑張れと言って励ましてくれる。手伝ってくれる支えてくれる応援してくれる…。
だから、これからも頑張らなくちゃいけない。安らいでいるヒマは無い。

だけどいったいいつになったら、わたしに平穏が訪れるのだろう。
泣きながらわたしは暗澹たる気持ちでいました。

@nifty 投票:あなたは、どなたですか?

| | コメント (3) | トラックバック (0)

束の間の静寂

わたしの体は完全に小康状態を保っており、造血剤も効いて、落ち着いていました。
予約の日、朝一番に大学病院に行き、呼ばれて診察室に入ると、先生はいつものように慈愛に満ちた表情で問診をし、超音波で念のため確認すると、こう言いました。
『これは、もう治っていますよ。』


ホントウデスカ…?

『卵巣も元の大きさに戻ったし、子宮内膜も増えてないです。更年期障害でもなく、癌でもない。治りましたよ。』
『治ってる…? でも、一体何だったんでしょうか…。』
『そうですね、私も実は驚いています。春先に何か大変なことがあったということでしたが、
ストレスで、ここまで悪くなってしまう事例を私は見たことがありません。よっぽどのことがあって、辛かったのでしょうね。』
先生は優しい声でそういたわってくださいました。
体だけではなく、心を診てくださる先生でした。
『はい…。とても、大変でした…。』
『あとは、こういう言い方は何ですが、最初に掛かられた病院で、まるで正反対の治療をされて、さらに悪化したという可能性もあります。ですが、もとはストレスだったと思うので、このまま様子を見て、また何かありましたらすぐにいらしてください。』

わたしは心からお礼を言って、大学病院を後にしました。

無罪放免。
そんな言葉が浮かびました。

わたしは友人と弁護士とNさんに報告のメールを入れ、現在メールフィルターをかけている仲間には、着信も拒否してあったので、仕事中の電話に出れない時間帯に電話をかけ、一応お礼と報告を留守録に入れました。彼にもお世話になったわけですから、知らんぷりは出来なかったのです。

摘出しなくて済んだ子宮と卵巣を大切に抱え、わたしは女友達に会ってちょっぴり豪華に食事をし、カラオケに行って久しぶりに晴れやかに一日過ごしました。


翌日、刑務所の彼から9月分の手紙が届きました。
それによると、8月の末に、雑居から独居にしてもらったとのことでした。
皮膚病があるため雑居では嫌われいじめられていたので、刑務所がわもトラブルは少ないほうが良く、独居にしてくれたようなのです。
これでヒメからの手紙も遠慮なく何回も読み返せるし、勉強もできるし、朝も休日もゴタゴタしないで済むし夜もよく眠れると、喜びに満ちた文章が弾んでいました。
わたしも彼がいじめられず夜眠れることには心底安堵し、わたしにもその後、安定した体調と静寂が訪れました。

もちろん、
秘密の逃げ場所として、Nさんとはひっそり会っていました。
女であることを維持し、抱えて喘いでいるものをひと時忘れて、わたしは彼氏を裏切り続けました。
そして、こうしないと生きてはいけない、と、自分を正当化していたのです。


しかし静寂は、たった一ヵ月半で破られてしまいました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »