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2007年7月

捻じ曲がる心

わたしを町田のクリニックに連れて行ってくれたのは、飲み会のメンバーの一人ですが、好意を持ってしてくれたことであり、こちらにも甘えはありました。
しかし、その後の度を越した介入と、執拗な要求に実はわたしは辟易していました。
お世話になっておきながら会うのは嫌だとも言いにくいものです。

実際会の中では一人だけ向いている方向の違う人ではあり、わたしが友人にメールでヘルプサインを出すと、彼はいつも決まって
「困ったもんだね。君が自立すればつけ込んではこないだろうけど、今はとにかく体を治すのが第一。ヤツのことは放っておけば。」という趣旨の返事をくれました。
わたしはフィルタをかけて、その人からのメールを拒否しました。

保護司に会った翌週、友人と、会のボスと、裁判にも付き添ってくれた女性と4人だけで集まりました。
そこでボスから「ヤツのことで大変な思いしてるんだって?」と優しく聞かれた途端、わたしはドッと泣き出してしまいました。そんなつもりじゃなく、楽しく飲んで騒ぎたくて会ってもらったのに、わたしの涙はなかなか止まらず、オーダーを取りに来た女店員にボスが「いや、いじめてるんじゃないからね、」と言い訳するほどでした。

ボスはわたしの好きなつまみをあれこれ注文してくれ、卓上はにぎやかになりました。
そこで女性メンバーが、
「最近毎朝毎晩、あの人からメールが来るのよ。その日の予定とか、今日やった仕事とか、毎日報告してくるから、何で急に? なんでアタシ? って思ってたの。ヒメがメール拒否してたからなんだね。」と言いました。
3人は驚き、実は友人宛にも、「ヒメはどうしているか」としつこくメールが来ていると漏らしました。今日来なかった若いメンバーにも同様のメールが行っているということでした。
わたしはあまりの事に恐縮してしまいました。
わたしがメールを受けてさえいればみんなにこんなに迷惑かけずに済むのに…。

友人が疲れ果て体も壊して、私の世話役を表面上降りたときに、その人は嬉々としてわたしに介入し始めました。その真意は皆が分かっていました。

「気持ちが落ち着いたらでいいから、メールを解禁してやれ。じゃないとみんなが大変だ。聞き流せばいいから。」ボスにそう言われましたが、わたしはハイとは答えませんでした。
自分が抱えているものだけでもう手一杯なのです。体もどうなるかわからない。ただの友達としか考えられない相手の想いを汲んだり受け止めるなんて無理でした。

一人では立っているのがやっと。歩こうとすると介助が要る。介助してもらうと友人のように重圧で壊れるか、もしくはこんな風につけ込まれる。
わたしは「買いたい」と言われていたのです。

自分を売ることが、どれほど精神をすり減らし、心を捻じ曲げることかを、わたしは知っています。それはとてつもなく自尊心を傷つけ、卑屈になります。
もうこれ以上、自分を痛めつけることはしたくありません。

そして、大学病院に結果をききに行く日が来ました。
9月の爽やかな風を感じられるようになっていました。

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隙間を埋める

保護司は、隣町から自転車でやって来ました。汗だくでした。
刑務所に移送されて最初に書いた彼の「帰住予定地」の地図がデタラメだったため、見つけにくかったのだと遅れた言い訳をしました。
それはそうでしょう、彼はわたしの家に来たことがないのですから、知る術がないのです。
ただ、アパートを借りるときに不動産屋に行くためにこの駅に降り立ったことがあるというだけで、来た事のない家までの地図を書けるはずがありませんでした。

保護司は建物をぐるっと見て回って、あとは喫茶店でということになり、彼は自転車を引き、わたしは保護司に見せるべく様々な書類をファイルしたものを持って、炎天下を歩きながら話しました。
近所付き合いはあるかという質問に、NOと答えたわたしに保護司はこう説明しました。
「近所づきあいがあると帰ってきたときに逆に色々勘ぐられたり聞かれたりするから、面倒なんだよね。」
なるほど、そういうものかと思いました。
保護司は気さくに、今まで担当してきているのが、少年とヤクザが殆どで、こんな風に身元引受人が居て本人の態度に問題の無い人を担当するのは初めてだと言いました。
「だけどね、仮釈放が決まって、引受人に連絡するでしょ、はいわかりました、迎えに行きますって言ってて、迎えに来ず、逃げちゃう人がけっこう居てねえ。」
信じられない話でした。

身元引受人が迎えに行かないと、仮釈放は認められません。
釈放の儀式を終えて出てみたら迎えがいない…。 そんな残酷な話があるでしょうか。
迎えに行けない・一緒に暮らせないなら、身元引受人を途中で辞任しないと、返って残酷です。頭を垂れてまた独房に戻っていく受刑者の姿を想像し、わたしは暗い気持ちになりました。

喫茶店に入り、保護司からの問診のようなものが始まりました。
一つの質問に対して、選ぶ答えが5つあります。例えば、

:あなたは○○さんの身元引受人に
:①なりたくない  ②できればなりたくない  ③どちらともいえない  ④なってもいい  ⑤ぜひなりたい

という感じで、質問が続くのです。
一通り質問と確認が終わり、なんだか大丈夫そうですね、と保護司は立ち上がりかけたのですが、わたしは引き止めました。
たった一回の法廷での証人として、果たせなかったことを今こそ補わなくてはならない。わたしは必死でした。

用意してあったファイルを見せ、書類(接見禁止決定書から、起訴状、弁論要旨、内妻照会書など)彼の全てをわたしが管理していること、面会にも欠かさず行き、週に3~4通の手紙を出していること、彼の父親が尋ねて来て土下座をせんばかりに頼まれたこと、そしてわたしのバックには、5人の仲間と、「親切すぎる」弁護士がついており、バックアップ体制が万全である事をアピールしました。
わたしは泣きながら保護司に頭を下げました。

『どうか、お力をお貸しください。一日も早く、わたしは彼をこの手に取り戻したいのです。』
保護司は感銘してくれ、最善を尽くし最適な報告書を書くことを約束してくれました。

面談は、半年毎に行われます。「心変わりしていないかを調べるわけですね?」と聞くと、彼は笑って、まあそういうことです。と答え、ついでに、保護司としての苦労や、自分の子供の愚痴などをわたしにつらつらと話して、席を立ちました。10分くらいと言っていたのが、一時間半を過ぎていました。

情状証人として、法廷で言えなかった一言を、わたしは保護司に託すことができました。


『一日も早く、彼をこの手に取り戻したいのです! お願いします!』

やっと言えた。初公判の日、弁護人から「もう出来ることは何もありません。」と言われてから引きずっていた3本目の鎖を、ようやくここで解きました。

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ステップアップ

八月の下旬に、二度目の面会に静岡を訪れました。
本当に暑いところで、刑務所の房にも蚊が居ると彼は言っていました。
いじめられていないかと心配すると、また新しい入居者が入ってきたので皆の関心はそちらに移り、大したこと無くなったからと空元気で彼は答えました。

その週末、不審な着信が携帯にありました。
夜間ということもあり、出るか・出まいか迷った挙句、わたしは電話に出ました。
「○○と言いますが、キャラさん(←私)ですか?」男性はそう聞いて来ました。わたしは身構えました。○○という姓が、彼から搾取していたヤクザの名前と同じだったからです。
「そうですが、どちらさまですか!?」
「△△(←地名)の○○です。」
「だから、何なんですか、どなたなんですか、どうやってこの番号を、」
「保護司です。」

わたしのヒステリックな詰問を遮ってその人は言いました。
「保護司です。あなたは●●さんの身元引受人ですか? 私は彼を担当する保護司の○○です。」
ああ、早く言ってよ~。わたしはへたり込みました。
「失礼いたしました、そうですか、確かにわたしが身元引受人です。」
「いやあ、すみません、最初に言えばよかったんですが、拒否されることが多くてつい…。この地域を担当していて、彼の帰住予定地があなたの家になっているので、一応それが適しているか見に行って、面接しなければならないのですが…」
「はい、それについては存じております。ですが、今息子が昼間家に居ますので…。」
わたしがガラッと変えた口調でそう答えると、保護司はホッとしたように明るい声で話を始めました。
「普段私も仕事してますんで、次の日曜とかどうかなと思うんですが、家は中に入らなくてもまわりの環境を見せてもらえばいいです。どこかそこらへんでササッと10分ぐらい面談できますかね。」
ササッと済ませられるわけには行きませんでした。

保護司とは、法務省の保護監察官という役人の下で、実際に実務を行う民間の人です。
報酬はわずか月額数千円。ほぼボランティアです。こういう善意の人たちで、釈放された前科のある人たちが支えられているわけです。仮釈放されたあと、法務省に出向いて報告をし、次に保護司に会いに行き、それからでないと帰住地に帰れません。その後も満期を迎えるまでは毎月、保護司に面談に行って近況を報告する決まりがあります。
保護司は、住職・会社の社長・昔からの地主・もと教師、その他自営業の方が多いそうです。会社員の人には時間的にこなせない仕事でしょう。
その保護司が書類を書き、法務省に報告し、その報告書が仮釈放などに大きな影響を及ぼします。
ササッとではなく、充分にわたしの決意を聞いてもらい、理解してもらい、これなら大丈夫と太鼓判をもらわなくてはなりません。
家を見たあと、駅前の喫茶店に移って話がしたいと伝え、日曜に約束して電話を切りました。

出血は止まり、造血剤も欠かさず飲み、体調は僅かに保たれて来ました。
しかし一方では、クリニックを紹介してくれた仲間から執拗な介入を受け、心にストレスを溜め込んでもいました。
わたしは友人にSOSを発し、会ってもらう約束を取り付けました。

そして日曜、保護司が訪れました。彼と同じ歳の、柔和な小さな男性でした。

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ただいま戻りました。

今、PCが戻って参りました。
幸いにも異常はなく、クリーニングされて綺麗にピカピカになって帰ってきました。
嬉しいです。が、すごく臭かったのはわたしのほうの異常ということになります…。それも問題だ(笑)

ウツ病を含む心身症は、脳が必要に応じていかようにも症状を作り出すということが報告されています。
わたしは病気を忘れるくらい没頭していて、ハイペースで記事をUP出来るよう頑張ってしまったので、潜在意識のほうから体の症状をして『もう駄目だよ、休みなさい!』と警告が来ていたもかもしれません。
事実、PCが修理に行ったあと、わたしは3日間昏々と寝込み続けました。

薬がいいふうに効いて来て、だいぶ良くなったと自分で感じていたのですが、やはりまだ全然無理ができないのだとわかりました。

精神科でウツ病の治療・投薬を受ける傍ら、心理カウンセリングにも通い始めました。
お金を払って、何の関係もない他人に、ビジネスとしてただただ話を聞いてもらえるということが、いかに有効なことなのかを実感しています。
通っているのは、色々な経緯があり大学病院の精神科ですが、ゆっくり愚痴を聞いてもらうのはやはり遠慮してしまいます。
どうしても辛くて、いまのカウンセラーさんに聞いていただくこととになり、少し遠いですが通っています。

話しているときに、ハッと自分で気付くことが多々あります。
カウンセラーは否定せず、押し付けず、よくよく話を聞いて、気持ちに寄り添い、同調してくれ、ヒントをすこしくれます。わたしのカウンセラーは、自身ウツ病で8年間苦しみ、立ち直り、そういう人たちを救いたいと資格を取ったかたなので、辛い気持ちやゆがんだ考え方をよく理解してくださいます。

ウツやその他の心身症で苦しんでいる人が、一人でも二人でも救われてくれたらと思っています。

留守中訪問してくださったかた、ありがとうございました。戻って参りましたので、またお越しくださいね。それを励みに、少しゆったりと更新し続けていきます。
むにゅを可愛がってくださったかた、コメント・メールを下さったかた、ありがとうございます。

では夜にでもまた本編を更新しますね。
…潜在意識さんから、ブレーカーを下ろされない程度に(笑)

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7月29日 キャラ姫&むにゅ

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おしらせ。

いつもご訪問ありがとうございます。
今日はお話の続きではなく、ブログを
少しだけお休みするお知らせです。

PCが発火しそうなんです(笑)
電源入れるともう臭くて臭くて…。
サポートセンターに電話したら、「なるべく早くお預かりさせていただきたい」とのことでしたので、そうします。

ほんとうにいつも読んでくださってありがとうございます。励みになっています。
ちょっと頑張りすぎてウツ病のほうも少し症状が強いので、そちらのほうの意味でもお休みしますね。
留守中訪問くださったかたは、コメント、メール、「むにゅ」をかまう、などで足跡をのこしてくださると大変嬉しいです。楽しみにしています。

また、すぐに戻りますので、よろしくお願いいたします。

7月18日  キャラ姫&「むにゅ」

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2本の鎖

二週間後大学病院に行くと、卵巣の腫れは引いており、内膜も増殖してはおらず、癌でもなく、更年期障害でもない、という見解でした。

一時は助からないと思った子宮も卵巣も、どこも悪くなく、出血も止まったということに、わたしはキョトンとしていました。
その日は確認のために採血をしただけで帰され、喜んでいいのだけど、どういうことだか全くわからないと首を傾げました。

また二週間様子を見て、何事も起きず疑わしいこともなければ、わたしは
無罪になるとのことでした。


彼が刑務所に移ってから、わたしは、もうそろそろいいだろうと思い、
逮捕の前後のことを詳しく手紙に書いてくれるよう頼みました。
手紙には、こんなことが書かれていました。


大阪の民事裁判で敗訴しながら一銭も返さないでいたため、東京地検から呼び出されて、逮捕の数ヶ月前から何度か検事に会い、要求された書類などを提出していたとのことでした。
なので、逮捕の日も、早朝6時に検察が踏み込んで来たにもかかわらず、逮捕されるとは思っていなかったのだそうです。(←これが彼の甘さを如実に表していますが)

検事に促されてワゴン車に乗り込み、それとすれ違うように地検が自宅に入って証拠品の押収を始めたのだそうですが、それを彼自身は見ていません。
残された息子が検察官と果敢に戦ったことなども彼は知らないし、それを話すことは辛すぎてわたしには出来ませんでした。

地検に連れていかれ、会社のパソコンのIDを聞かれて初めて、会社にも地検が入ったことを知り、数時間の追及ののち、地検で逮捕されたのだそうです。


逮捕されてすぐ、手錠腰縄姿で護送車に乗せられ、東京拘置所に移送されたのでした。
そこから取調べが連日朝10時から夜10時まで続けられ、逮捕後18日後に起訴されて接見禁止が解かれたのだそうです。

わたしが初めて拘置所に来たことを知った時には泣いた事、下着はすぐに着た事、着替えが差し入れられるまで二週間スーツで寝起きさたので擦り切れて破れたこと、いわゆる「臭い飯」が、最初は本当に臭く感じて食べられなかったこと。

支払いの期限がすぐだったので、ヒメがどうしたかと心配していたこと、思いもよらず弁護士が接見に来てくれ、号泣したことなどが書かれていました。


わたしには、それ以外に知りたかったことがありました。
まず一点は、わたしの存在そのものについてです。
地検の事情聴取が来るということを、わたしは覚悟していました。
彼の逮捕後、通勤の途中などにわたしを見つめる男性に気付くと、全員が検事なのではないかと怯えていました。
ですが、事情聴取はありませんでした。特捜ともあろうものが、恋人の存在に気付かない訳がない。
雇っていた女性に対しては事情聴取があったのに、わたしにはありませんでした。
その理由が知りたかったのです。
わたしの給料を当てにして時々彼が店の近くで待っていたときなど、尾行されていたのではないかと勘ぐってすらいたのです。

しかし、特捜はわたしの存在を知りませんでした。
知り合う以前に起こした横領ですから、関係ないと言えばもちろんそうですが、一番身近にいたのに。
特捜は、携帯とPCを見て初めてわたしの存在を知り、彼は「関係ない」と言い続けたため、聴取がなかったのです。

もうひとつは、
逮捕の日にちのことです。

アパートの鍵を借りる日の朝、彼は逮捕されてわたしの前から消えました。
それを友人Kに話したとき、「特捜だろ? 尾行してたに決まってる。で、隠れるって分かったからその朝踏み込んだんだろうよ。」と言われました。
わたしは友人を信頼しきっているので、てっきりそうだと思い、部屋を借りることを勧め、実行した自分を責めて悔やんで苦しんでいました。

部屋なんて借りたからその朝逮捕されたんだ…と…。

弁護士は「それは関係ないよ。」と言ってくれていましたが、それでもわたしは自責して苦しみ続けていました。

アパートを借りたことも、地検は把握していませんでした。
わたしの存在も。

逮捕から半年、やっとわたしから
2本の鎖が外されました。
自責の傷跡を心の奥深くに沈めました。

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秘密の逃げ場所

大学病院で処方された薬を飲んで、3日で出血はほぼ止まりました。

その週末、グループの飲み会がありました。
わたしは、自己破産が認められて送られてきた
「免責許可決定書」と、自分の病状を書いた紙をメンバーに回しました。
破産の件は、無事に終わったということをみんな喜んでくれましたが、病状については鎮痛でした。とにかく再来週の結果しだいなので、なんとも言えません。
わたしとしても。会のみんなにこれ以上経済的な迷惑をかけるのは辛い。
摘出を免れるよう祈るしかありませんでした。


日曜、ふと気が向いて、わたしはNさんの誘いに応じました。

会うのは気まずく別れた3月以来、4ヶ月半ぶりでした。メールでのやりとりはしていたため、彼からは四六時中誘われており、いちいちそれを断るのも不愉快だから、誘わないでくれと言ったくらいです。
それがどいうことだか気が向いて、逢う気になったのです。

どうして逢う気になったのだかわかりません。

その日わたしはNさんに抱かれました。
彼氏を裏切っているとか、罪の意識とかはありませんでした。
このまま女として朽ちていくのは怖い。もしかしたら子宮も卵巣も失うかもしれないのだ…。

わたしは、自分が女であることを感じ取りたかったのです。誰かに抱きしめられて愛されたかったのです。
彼氏がいなくなってから、誰にも愛されていない体でした。
Nさんは、丁寧にやさしく扱ってくれました。
耳元で、好きだよ、綺麗だよと囁いてくれました。

わたしのかいつまんだ、もしくはやや架空の説明をきくだけで、追求はせず、やさしく包んでくれました。
Nさんは、わたしの
逃げ場でした。
彼の前では違う自分でいられました。
仕事の喜びも愚痴もよく聞いてくれました。

その後ときどきわたしはこの
駆け込み寺を利用しました。女としての自分を確認することも癒しでした。
そうすることで、不安や恐怖や煩雑な世界にいる自分を、やっとのことで支えていました。
自分をどうにか支えて行かなければ、彼氏を待って迎えるなんて無理です。
わたしは、Nさんの恋心を利用したのでした。


それからわたしの子宮は排出を止め、おだやかな小康状態を得ることとなりました。

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立ってなきゃいけない。

2.2センチにまで膨れ上がった内膜は耐え切れず、やがて排出を敢行し始めました。

店の同僚には、「万が一出血起こして倒れたら、救急車で○○大学病院に運んでね。」と頼み、怖がられました。

わたしは腹腔内に腫れ上がった卵巣という爆弾を抱えているのです。
階段は、貧血のため息切れて、上るのはどうせゆっくりですが、下りるときは怖くて手すりを放せませんでした。転んだり落ちたりしては大変だと思ったのです。

食べているかのような勢いでナプキンは減って行き、たった20分の通勤の間持ち堪えることも不可能で、帰りにお茶でもなどというお誘いにも応えられずにいました。

その流血の最中に、大学病院行く日が来ました。
平日休みが月曜だけなので月曜に行ったに過ぎないのですが、ラッキーなことに紹介状を宛てた、医長の落合先生が診察日で、診ていただくことが出来ました。

メガネをかけた、とても素敵な先生でした。
紹介状には、手紙や超音波の写真も同封されていたようで、カルテと共に並んでいました。
落合先生は、ゆっくり、優しい声で問診しました。確かに内膜の2.2センチは厚すぎるし、卵巣もこの大きさだと危ない。まずは超音波で見て、癌検査のための細胞も採りましょうとのこと。今日も出血していることを告げると、気にしないようにと言ってくださいました。

暖かい手が触れ、超音波で診ながら、先生は声をかけて来ました。
『この出血は、恐らくもうそろそろ終わりだと思いますよ。』
そうですか…。力なくわたしは相槌を打ちました。
診察室に戻ると、今撮影した超音波の写真も置かれ、先週クリニックで撮って同封されていたものと比較して、先生は説明してくれました。

『私は、これは治ると思います。』

へっ?
治る?
摘出じゃなくて?
『内膜は、もうほとんど排出されているので、間もなく終わると思います。ですが、一回生理を整えるためにピルを使いましょう。それで出血を止めて、貧血があるならそれを治療しましょう。更年期にはあなたはまだまだ早いと思いますが、念のためその検査もしておきましょう。』
『はい…。あの、卵巣のほうは…?』
『卵巣はね、先週より小さくなってる。これはね、このまま治ると思います。』
『そうなんですか!?』

『私の診立てでは、何か出来ているとか、膿腫だとかいう病気ではないと思います。…なにか、よほどのことがありましたか? 例えば、
春先に。

その言葉を聞いた途端、涙がどっと溢れました。

『ありました…。とても、大変なことが…。』
彼が逮捕されたのが3月。拘置所に通い詰め、受刑者になったのが6月。丸刈りの彼を見たときからわたしの体は壊れていったのです。

『そうですか…。春に、辛いことがあったのですね。』 
先生は、しばらくわたしを泣かせてくれました。

『体は、心に密着したものです。しかしすぐに反応が出ないで、3ヶ月くらいしてから発症することがあります。癌や膿腫でなく、更年期障害でもなければ、このまま治ると思いますよ。今日は、血液検査をしてから帰ってください。お薬を出しておくので、今日から飲んで、2週間後にまた来てください。そのときに検査の結果がわかります。卵巣や子宮内膜がこの二週間でどう変化するかを診てから、また考えましょう。』

摘出しないでいいかもしれない。手術しなくて済むかもしれない。子宮を取らなくてもいいかもしれない。
検査室で採血をし、薬をもらって、岐路につきました。

よっぽど、辛かったんだね…ワタシ。
心も辛かったけれど、体も酷使した。これは
警告なんだ…。

それでも、休みはありませんでした。心にも、体にも。
寄りかかって休みたい。
けれど、助けてくれている人がたくさん居る以上、わたしは立っていなくてはいけない。

そう考えていました。

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「僕に頼りなさい。」

わたしにはもう一人、支えてくれている男性の存在がありました。
以前、生活に困っていた時に察して大金を貸してくれた人です。仮にNさんとします。
Nさんにはほとんど毎日メールをしていました。彼氏がいることも承知のうえ、わたしのメールに付き合ってくれました。

彼はわたしを好きでした。

わたしは、Nさんと会って飲んだり話したりすると楽しい反面、非常に逆撫でされることも多々あり、しょっちゅうケンカをしました。煮えくり返って怒りのメールを3通続けて送ったこともあります。

思えば、Nさんに対してだけは、いい子ぶらない、頑張り過ぎない、誰にも見せないむき出しの自分だったような感じがします。
彼がわたしを好きでいるのは充分知っていながら、わたしは彼を好きではなかったし、好きになってもらうためにいい子ぶる必要もないので、言いたい放題言っていたのです。
ずいぶんひどい言葉を投げつけたこともありました。
それでもNさんは、翌日またメールしてくるのです。
引くということをしない男性でした。


でも、彼氏が逮捕されたことは、言えませんでした。
顔見知りだからです。
なので、「彼氏の会社が潰れて、わたしは連帯保証人になっているために自己破産する」と説明し、その後は全く会うことなく数ヶ月が経過し、それでもなぜかメールだけはやりとりしていました。

町の産婦人科の待合室で時間つぶしにこっそり付き合ってもらったり、毎朝、通勤途中でメールをし、階段から落ちて足を痛めたこともありました。
Nさんがわたしに踏み込みすぎるあまりわたしがキレて、ケンカもしょっちゅうで、メールフィルターをかけて拒絶したことも数回ありました。


大学病院に行くまでの一週間の記憶はありません。ただ、もう立っていることも辛く、接客業に耐えられないかもしれないと弱気になって、売り上げはどん底でした。

事が思ったより重大だったため、わたしは刑務所の彼には事実を告げずに手紙を書いていました。もし摘出しても、彼が戻って来るまで黙っていよう…。戻って来たら、実はね、と話して泣かせてもらおう。
けなげにもわたしはそう思っていたのです。


実際は、恐怖と、生活の不安と、悲しみで心は乱れっぱなしでした。クリニックのドクターに聞いたところ、手術・入院は3週間、その後2ヶ月静養という目安でした。
手術代入院代はおろか、静養の間の家賃生活費はどうしたらいいのだろう…。
自己破産の時に保険は解約してしまっている。
もちろんどこからも借金はできない。


会のみんなに助けてもらうにも限度がある。50万という大金を出してもらったばっかりなのだ…。親には頼るどころか事実を話すことも避けたい…。

わたしはNさんにメールで病状を軽めに伝えました。感情は入れず、事実を話しました。
「力になろうか?」 Nさんはメールでそう言ってくれました。
「うん…どうしようもなかったら、お願いするかもしれない…。でも、お見舞いとかにこられたくはないの。」
「科が科だし行きませんよ! それより、どうしようもなかったらって、ほかにアテでもあるのですか?」
「…まだ、相談してないのでわかりません。」

しばらくしてNさんから一行のメールが届きました。


『僕に頼りなさい。』

携帯を握り締めてわたしはまたほろほろと泣きました。
抱きしめてくれる腕がほしい。思い切り泣ける胸が欲しい。

Nさんの一行は、わたしを素直にし、そしてわたしを弱くしました。

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失うのは嫌だ!

わたしの中には最新鋭の超音波の機材が挿入されたまま、カーテンを開けられました。

そもそも、普通の一人掛けソファに座った途端、回転しながら上昇しながら両足を開かれるというシステムに面食らった直後です。
柔和な表情で、ドクターは
「うちでは手に負えない」と断言したのです。

『まず、これを見てください。右の卵巣です。普通は、
胡桃大のものです。あなたのは、鶏卵大になっています。5.5センチです。左は4.5センチ。』
モニターを指しながらドクターは淡々と説明していきます。
『これで考えられる最悪の病名は、
卵巣膿腫です。通常4.5センチから5.0センチになると、破裂の恐れがあるので、切除します。腹腔内で破裂したら大変なことになるからです。でも、左はなんとか残せるかもしれない。』

らんそうのうしゅ…。切除…。摘出…。
卵巣は、卵子を排出するだけではなく、女性ホルモンに大きく関わっているとされています。なので、もう妊娠を望まない場合も、残せるものは残したほうがいいとわたしは見聞いていました。

『それから、子宮ですが…おっしゃるとおり、壁の中に2.5センチの筋腫があります。だけど、これがそんな大出血を起しているとは考えられない。それよりも深刻なのが子宮内膜です。通常、生理の寸前でも子宮内膜は
1センチくらいの厚みのものです。だけどあなたのは2.2センチにもなっている。』
その数字にぞっとしました。今日はたまたま止まっていますが、またあの
大出血に見舞われることは必須…。
『いままでの経過と、この状況を見て、最悪の病名は、
子宮内膜増殖症、です。これだとすると、子宮も助けられない。』

わたしは、黙りました。

別に卵巣も不要だし子宮なんてもう使わない。今はどうせ抱いてくれる相手もいない。

だけど、あんまりではないか…。
こんなに次々と、あんまりではないか…。

『紹介状を書きます。家に近いほうが通いやすいかな?』
わたしは頷きました。もう職場どうこうの問題ではありません。大規模な外科手術をしなければいけないかもしれないのだ…。
『あなたの家に近いところだと…』とドクターは3つの病院名を出しました。
わたしは、3つ目に出た、大学病院をお願いしました。
聞けばドクターはその大学病院の分院で婦人科の医長をしていたことがあり、系列の医者は全て顔見知りだということでした。

操縦席のような診察台から解放され、わたしは待合室に戻りました。
紹介者に
『大学病院に行くことになった。手術しなくちゃいけないかもしれない。』と告げました。
そのうちに彼は診察室に呼ばれ(産婦人科で男性が一人診察室に入っていく奇妙な風景!)、旧知の仲を暖めたようでした。


もう一度問診の部屋に呼ばれると、紹介状が用意されていました。
大学病院の婦人科の医長宛になっていました。
その人に診てもらえるかどうかはわからないけれど、その科のトップの人宛に書くのが紹介状の暗黙のルールだそうです。
厳重に封印されたその封筒を頂いて、そのクリニックをあとにしました。


帰宅して一人になってから、泣きました。

あの人が居ない留守に、子宮を失ってしまうのは嫌だ!

使う使わないの問題ではありません。年齢も、問題ではありません。
一人で、その
喪失に耐えるのは嫌だ…。


声をひそめて泣きました。

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目眩の夏

やっと会えたという余韻に浸りながらも、待合室に戻って、売店で差し入れをしようとすると、用紙は面会受付にあり、持ってきたものを差し入れるのは面会受付、買って入れるものは売店と、狭いくせにレトロなくせにややこしいシステムに戸惑いました。

彼に言われた、切手・ボールペン・石鹸・タオルを差し入れて、わたしはまた小さなドアから外界へ出ました。

目眩に見舞われそうな夏空でした。

門でバッジを返却しながら帰りのバス停について聞くと、降りたのと同じ名前の停留所のほうが若干近くて安いと教わり、道を横切って向かおうとすると、後方から呼び止められました。
面会の申請用紙の出し方を教えてくれた婦人がわたしを追いかけて来ました。
「ねえ、おたくバスで静岡に行くの? なら連れて行ってくれない?」
一緒にタクシーでと言われたら嫌だなと一瞬思ったあとだったので、それは了承しました。

道々彼女は自分のことを話しました。三島から来たこと、いつもは東静岡で降りてタクシーで来ていること、タクシー代が片道2600円かかること、内縁の夫が入っていて、9ヶ月経ってやっと3級に昇級し、面会が月に2回になったこと…。
彼女はわたしにも質問をしましたが、わたしは東京から来たということ以外答えませんでした。

真夏のバス停に到着すると、1時間に3本しかないバスはまだまだ来ず、彼女は自販機で冷たいコーヒーを買ってわたしにくれました。
「今日こうして話したこと、忘れないでね…。」そう言って。
強がっていましたが、とても影のある人でした。
彼女を静岡駅で東海道線に乗せ、わたしは新幹線の乗り場に向かいました。


翌々日、彼から7月分の手紙が来ました。

拘置所からの移送は前日に知らされ、行き先は当日朝告げられたということでした。
拘置所とは違って雑居であり、皮膚病のことでいじめられたり、夜は誰かしらが行くトイレの音で眠れず、朝は起床から点検までの時間が短くて揉め事が耐えないこと、土日は全員が雑居房にて過ごすので、どの房でも揉め事が多いこと、工場での作業の様子などが書かれてありました。

おそらくは彼にとってもっとも辛い時期のひとつだったでしょう。
わたしのからだを思いやる言葉も無く、感情の入らない、小学生の日記のように事実だけを羅列した稚拙な手紙でした。

わたしはせっせと手紙を書いて投函しました。
平均して週に4通出していました。
毎回違う記念切手、違う封緘シールを貼りました。


予約していた町田のクリニックに行く日が来ました。
紹介者と待ち合わせて小田急線に揺られました。8月の、暑い日でした。
そこでわたしは驚愕の事実と向き合うことになったのです。
発症してから丸二ヶ月が経過していました。


『これは、うちでは手に負えないね。』
ドクターはそう言って、カーテンを開けてモニターをわたしに見せました。

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カルチャーショック

ロッカーに鞄と傘を入れ、その鍵と手帳とハンカチとだけを手に持って、わたしは狭い待合室を見回しました。

壁には受刑者の所内での様子を撮影した写真パネルが数点展示してあります。
入所教育・作業・慰問・部活動などの写真。
わたしは『待ちに待った釈放』と銘打った写真を繁々と眺めました。
今日初めて面会に訪れた身にとっては、それははるか遠い未来のことのように感じられました。

ガラスのショーケースがあり、中に展示してある物を見てわたしは仰天しました。

それは、差し入れの出来る品物の一覧だったのですが、ノート・鉛筆・石鹸・タオル・シャンプー・歯磨き・歯ブラシなどの日常品のみ。
それが、いまどきこれをまだ売ってるの!? という昭和なものばかりだったのです。
これわたしが子供のころには既にあったし、今どき田舎のビジネスホテルに行っても、これは売ってないだろうというレトロなものばかりでした。

例えば、シャンプーなら「シャワラン」か「トニックシャンプー」です。
こんな鉛筆も消しゴムももう見たこと無いよ…と絶句しました。
カルチャーショックでした。
刑務所とは、
いったいいつの時代を生きているのだろう、と。


やがて受付の窓が小さく開いて、面会の申請書が中に引き込まれました。
後ろではガラガラと音をたててシャッターが開き、売店が登場しました。

鼓動は服の上からでもわかるくらいに跳ね上がっていました。

「33番の方」と、窓口から呼ばれました。駆け寄ると、
「今日、初めての面会ですね? 何か身分を証明できるものはありますか?」と聞かれました。
わたしはまたロッカーを開けて、鞄から免許書を出して見せに行きました。
係官は何かを記入していました。
「面会できますか?」 不安に耐えかねて聞いてみました。
「ええ、大丈夫ですよ。」

会える…。
わたしは免許書をしまって、また座ってスタンバイしました。

不鮮明な放送が入り、番号を呼ばれました。

持ち物検査も、金属探知機も無く、係官もいないゲートらしきものを通ると、すぐに面会室が並んでいました。
これでいいの? 刑務所。

そのうちの一室に入って鍵をかけました。
アクリルの仕切りは古くて曇ったり傷ついたりしており、暗い照明の面会室でした。

区切られた向こう側のドアには上部に覗き窓があり、そこから確認している人影に気付くと、それが1ヵ月半ぶりに会う、彼の姿でした。

わたしを見て涙を浮かべました。よほど辛い思いをしてきたのでしょう。

面会時間は20分ほど取られました。
先週末にやっと内妻の認定がなされ、それまで領置されていたわたしの手紙10通が手渡され、月曜に来るのだと知ったのだそうです。
そして、移監の手紙は、特別発信許可をもらって書いたもので、内妻の認定が下りてようやく彼からも発信が出来ることになったそうです。
明日が、月に一回の発信日となるとのことで、拘置所で受刑者となってから書き溜めたものも含めて出すと言ってくれました。

終わりが告げられたとき、かれは珍しく食い下がりました。
『もうすこし駄目ですか、東京から来たんです。』
もちろん答えはノーでした。

沢山手紙を書くことを約して、彼が連れて行かれるのを見送りました。
拘置所で太った彼は、元に戻っていました。
丸刈りの、その犯人顔に、わたしは慣れませんでした。

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時代錯誤な刑務所

バス乗り場はデパートの脇に数箇所あります。
わたしが乗るバスは「こども病院行き」です。乗り場を見つけて時刻表を見ると、間もなくバスが来るはずでした。

大急ぎで時刻表を手帳に書き写し、待っていますと、ヨレヨレのスーツを着た年配の弁護士と、これまた年配の婦人がやって来て、このバス停でいいのだろうかと思案顔でした。
弁護士なら調べていらっしゃいよ…と思っているうちに黄色いバスが遅れてやってきました。
整理券を取り、降りるときに表示の料金を払う仕組みでした。わたしは金額もバス停の順も頭に叩き込んでありましたから悠然と乗り込みました。
すると、先ほどの弁護士がヨレヨレしながらわたしに聞くのです。
『○○○にはこのバスは停まりますか。』わたしが降りる停留所です。
わたしは、ハイと言って頷きました。でも、わたしだって始めてなんだよ…。


バスは市内を曲がり、旧街道に沿って走ってからバイパスに入り、20分ほどの道程です。

わたしはバスを降りて日傘を差しました。弁護士と老婦人も降りて来ました。
ここから歩いてまだ6~7分かかります。早足で歩き出しました。頭の中の地図に沿ってスタスタと。
大きな交差点を渡って曲がると、堀が掘られ、生垣があり、その奥にコンクリートの塀のそびえる通りになりました。
静岡刑務所でした。バイパスから少し入ったところです。
人里離れており、山裾でタクシーで行くしかなく、寒い黒羽刑務所より、静岡で良かったと感じました。
彼にも、わたしにとっても。


やがて門が見え、堀を渡って入ろうとすると、門番の人が「面会ですか?」と聞きます。
ハイと頷くと、数字の入った丸いバッチを渡して、説明してくれました。
胸の良く見えるところにつけること、右手奥の、あの小さいドアから入って面会の申し込みをすること。
東京拘置所のような冷たい雰囲気も無く、とても親切でした。
写真で見ていた正面入り口から入らせてはもらえず、脇についた、小さなドアが面会の待合室の入り口だというのです。
丸い真鍮のノブを回しました。そこに廊下があって受付に通じるのかと思って開けました。

ところがそこがそのまま待合室だったのです。


言うなら昭和40年代の町の医院のような空間がそこにありました。
東京拘置所との余りの差に愕然としました。
これで、大丈夫なの?と心配になるような造りなのです。
あらためて、東京拘置所の建物とシステムがどんなに凄かったのかをここで知りました。


時代錯誤なこの刑務所に、彼は確かに居て、これからわたしは通うのです。


面会の申し込み用紙を記入しました。それを持って昼休みで閉まっている小さい窓口(木製の引き戸で、医院の受付そのもの!)の前で呆然としていると、先に居てソファに座っていた50代半ばと思われる女性が「その板の下に置けばいいのよ。」と教えてくれました。
拘置所で話し掛けられた経験がなかったのでビックリしましたが、お礼を言ってそのようにしました。やがて先ほどの弁護士と老婦人も到着しました。


会えるだろうか。午後の分の面会の受付開始にはまだ時間がありました。

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破産、面会、そして爆弾

会議室のようなその広い部屋には、後ろのほうに折りたたみのパイプ椅子がずらり並んでおり、わたしたち3人はその椅子に座って待ちました。

部屋の前半分には、6~8人がグループで座れるような机・椅子が何組もセッティングしてあり、教壇くらいの高さの壇上にまで及びました。

マイクで呼ばれてそれぞれが指定されたテーブルに着き、裁判官を挟んで債権者と向き合い裁判が始まるという具合みたいです。
段の上だとサラシモノみたいでやだな…などと考えながら、興味深くそれを観察しようとしていると、わたしは最初のほうに名を呼ばれ、管財人と弁護士とともに段下のテーブルに着きました。

債権者は、あの悪名高い金融機関のほかにもあったのですが、どこからも一人も来ていませんでした。これは、弁護士が予想していたとおりで、ホッとしました。

裁判官と管財人が並んで座り、わたしと弁護士が並んで座り、その対面には誰もいないという奇妙なバランスで裁判は始まり、裁判官が管財人に『先生、どうでしょうか。』と尋ねると、『彼女は被害者であり、審査の結果、破産には問題ないと思われます。』と、涼やかな声で管財人は答えました。

わたしの自己破産は、ここで認められました。
裁判官が、書類に大きな音を立ててバンバンと大きな印を捺し、2~3の注意事項をわたしに与えて、裁判は終わりました。
ものの2分という、ミニ裁判でした。


もう少し見ていたいというわたしを引っ立てて、弁護士は管財人にお礼を言うと、タクシーにわたしを放り込みました。
日本橋に戻って二人でお茶をし、月曜に静岡に行くと告げると、絶対にもう会えるのかと念を押すので、「内妻の照会書が来て先週返送しておいたので大丈夫と思う、万が一駄目でも、彼の居るところを見てくる。」わたしは決意を話して、彼女と別れました。


そして7月の末の月曜。わたしは始めての、刑務所への面会に出かけました。

この日に行くことは手紙で知らせてありました。
病院に寄ってからなので、東京駅を11時台のひかりにしました。
1時間に一本だけ、静岡に停まる「ひかり」があるのです。
なので、午後イチの面会になるということも彼には書いておきました。
ですが、それを彼が読んでいるのかどうなのか、手紙がサッパリ来ないのでわかりません
でも、その日を逃すと8月に入ってしまいます。
万が一を覚悟しての、静岡行きでした。

病院に行って、どうしても出血が止まらないと訴えると、老医師は渋々薬を変えてくれました。
ですが、それはもう、遅かったのです。
わたしの体の中ではとんでもないことが起きていました。

爆弾を抱えているとも知らず、わたしは一番似合うシャツを着て、日傘を持って出かけました。
緋色の鞄には、静岡市の地図が入っていました。でも、アタマの中には静岡で降りてからの行程も方向も道も、すべて入っていました。飽きもせず地図を眺めたのですから。


静岡は暑いところでした。
そして、冬も経験はしたのに、暑いという印象しか残っていないのは、わたしの体は2年に亘って夏にひどく壊れていたからかもしれません。

新幹線を降りると、駅の構内をほぼ横断し、バス乗り場へと走りました。
それだけで、わたしの心臓は早鐘になり、階段を登るのには、老人のように手すりが必要でした。

体力の消耗は激しく、夏の日差しがいっそう辛く堪えました。

会えますように…
それだけを願っての道のりでした。

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さまざまな進展

産婦人科に行っても、「これは生理でしょう」と言われて帰されてしまいました。
それがそうじゃなさそうな勢いだからこそ病院に行っているのであって、自分でもビックリするような出血に耐えながら、店に出て、土日は自分の仕事で出かけ、夜は静岡刑務所の彼に宛てて手紙を書くという、相変わらずハードな生活を送りました。

彼からの素っ気無い手紙が来た翌週、静岡刑務所から手紙が来ました。

拘置所もそうですが、刑務所も、手紙にはその施設の住所しか書きません。つまり、東京拘置所なら、葛飾区小菅1-35-1、それに本人の氏名だけです。
刑務所もそうですから、一見では刑務所からの手紙だとはわからなくなっています。
書類は、「分類検査室」というところの担当官からでした。

「○○くんは現在当所にて服役中ですが、貴方を内妻とする申請が出されました。つきましては同封の
「内妻照会書」にご記入のうえご返送ください」という内容でした。
わたしはすぐに記入して送り返しました。

よかった、すぐに面会に行ったりしなくて…。これで認められてからでないと、許可されないのだなということがわかりました。

次の日も次の日も出血は不気味に続き、わたしの苦悩を知った会のメンバーの一人が、自分の大学の同期の友達が婦人科のクリニックを新しく開いたのだが、行ってみるかい?と申し出てくれました。
わたしは即座に頼みました。

クリニックは町田でした。遠いので通院は無理ですが、新しいクリニックの最新の超音波で診てもらって、今の治療が正しいかどうかを聞いてみたいと考えたのです。
すぐに予約を取ってくれ、彼は自分の休みまで取って、一緒に行くとのこと。
それを断ることは出来ませんでした。


その間に、わたしは
「債権者集会」というものに出ました。
これは、文字通り、わたしの債権者が裁判所に集まり、裁判官にいわば文句を言い立てて、双方の意見(わたしの側は弁護士)を聞いた上で破産を認めるかどうかの判決を下すという、ミニ裁判です。

午前中から弁護士と待ち合わせて、彼女は青黒い顔をしたわたしに高いうなぎをごちそうしてくれ、タクシーに乗せて霞ヶ関まで行ってくれました。

エレベーターの中で、自分の破産管財人と会いました。少女のようなかわいらしい人で、先月面談に行ったときには
「あなたは、被害者です。彼に騙されたことは明確です。破産には問題ないと思います。」と優しい声で言って、わたしの弁護士は思い切り立ち上がって「アッリガトウゴザイマスっ!」と敬礼までさせた人なのです。

数々破産をこなしている弁護士が「あなた、正直こんな楽な破産は初めてよ」と帰りのタクシーで言ったくらいでした。


裁判所の広い部屋で、わたしは弁護士と管財人に挟まれて座りました。
世の中にはこんなに破産をする人が居るんだ…と思うくらい沢山のグループが来ていました。

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血の涙

手紙は、恨めしいほど素っ気無い「連絡事項」のみでした。

こんなに待ち侘びていたのに、体が
血の涙を流すくらいに辛いのに、たったこれだけ…。

22日に静岡刑務所に移監になったこと、身元引受人・内妻として申請してあるのでよろしくお願いします…
これが手紙の全内容でした。

わたしは、さっき別れたばかりの友人にメールをして知らせました。
同時にPCですぐさま静岡刑務所を調べました。
場所を調べ、HPを見ると、車寄せのある鉄筋作りの建物で、築山があるあたりは小学校のような雰囲気でした。
友人からメールが戻り、同じようにPCで見ていると知り、笑う余裕が出来ました。

静岡であったという知らせは、その日のうちにメンバーには行き渡りました。
弁護士にも知らせ、月曜が休みのわたしは、面会に行ってみると言うと、彼女に止められました。
行っても会えるとは限らない、少し待ちなさい、と。

その代わりわたしは月曜、静岡刑務所に電話をしました。
電話に出た人も代わった人も、おっとりした感じでした。
わたしは電話口で詰め寄りました。
『面会時間は何分ですか?』
『30分です。』
騙されないぞーとわたしは思い、続けて聞きました。
『それって、実質どうなんですか。ホントーに30分会えるんですか。どこかの拘置所みたいに、いやそれは
30分まとするっていって、10分で切り上げたりされないでしょうね…。』
電話口の係官は、少し笑って、
『いやあ~、そうですねえ~…ほぼ、30分です…かねえ。』
これにはわたしも笑ってしまいました。
『東京から新幹線で行くんです。10分で切り上げられるわけには行かないんですよ。』
『大丈夫だと…思いますよ、忙しくない限り…。』
『何曜日が忙しいんですか!』
『いやー、うちは結構ヒマかな。』
そこでまたドッと笑ってしまいました。

そのあと時間や差し入れのことなどを尋ねて、電話を切りました。
弁護士の言うとおりにもう少し待って…無駄に行っても仕方が無い。でも、7月中に行かないと7月分の面会が出来なくなる。
わたしは月末の月曜日に行くと決めました。

しかし、新幹線で往復すると14000円ほどかかります。それを毎月捻出することは不可能。 
まして病院通いで困窮しているのに…。

人には言えない方法で現金を手に入れるしかない。自己破産を申請しているわたしには、貸してくれるところは無い…。
けれど、それが不可能なのもすぐにわかりました。
出血が、どんどん増えてきているのです。
怖いぐらいに…。

わたしの体は、どうなってしまったのだろう…。
もう、薬も注射も効かなくなってしまいました。 

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待ちわびた手紙

もう居ないとわかってしまうと、不安や切なさがこみ上げます。
小菅に戻る道すじ、正門の門番さんが泣きながら歩いているわたしを見て、
「どうしたのー」と声を掛けてくれました。
わたしは思わず駆け寄りました。
『もうここには居なかったんです… どこに移されたかわからない!』
わたしが挨拶以外で初めて交わした言葉がこれでした。

『そうかあー、辛いねえ。あなた長く通ってたよねえ。』
『はい…いつもありがとうございました、救われてました。もうここは最後です。』
『そうだねえー。体に気をつけなよー。』
おじさんはやさしい言葉をくれました。
深々とお辞儀をして、わたしは駅に向かいました。

小菅の駅は、荒涼としており、拘置所の建物は更に大きくなっていました。
願わくば、緑に囲まれた施設になってもらいたい…。
拘置されている人のためにではなく、闇を抱えてここを訪れる人たちのために…。


6月の22日に移送されたとしたら、7月に入れば7月分の手紙が書けるはずだ…。きっともう来ていてもいいはずだ。月が替わって書けるようになったらすぐに書くっていう約束だったのだから…。 

手紙を待ち望む日が続きました。
その間もわたしの体からは、徐々に出血の量が激しくなっており、もう薬の効果が無くなって来たかのようでした。

つぶれそうな不安を抱えて手紙を待つ、この時期も格別に辛い時期でありました。

そしてわたしはその辛さに耐えかねて、無理を言っては飲み会をしょっちゅう開いてもらい、その週末には「お好み焼きに行ってみんなに世話されまくりたい!」というワガママを通してもらっており、仕事で遅れて行ったくせに傍若無人な振る舞いをし、夜中に帰宅して郵便受けを覗きました。


真っ白い封筒が一通。

来た!
わたしは家に入り、ドキドキしながら裏を見ました。

静岡でした。
黒羽じゃなかった! 寒いところじゃなかった! 

はさみで細く封筒を切り、便箋を取り出しました。
たった一枚でした。しかも5行でした。
調度一ヶ月ぶりに見る彼の文字でした。

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最後の拘置所

そしてわたしは、やはり「会えるかも」という甘い期待を見事に裏切られました。

『本人もうここにはいません。22日に移送になりました。あとは、本人からの手紙を待ってください。』

もう居ない…
どこに移送されたかわからない…
店のオープンの、あの雨の日にどこかに移されたんだ…。

わたしは力なくベンチに腰を下ろしました。
そして思い出してもう一度窓口に行き、
「じゃあ、手紙が来るまでこちらからは手紙を出さないほうがいいでしょうか?」と聞きました。
「そうですね、そのほうがいいと思います。」
「移送されたのを知らなかったので…こちら宛に出していたわたしの手紙はどうなっているんでしょうか?」 
「それは、転送されると思いますので大丈夫です。」


下獄して刑務所に入ると、手紙のやりとりも、面会も、配偶者か親族しか出来なくなります。
わたしたちは籍を入れていないので夫婦ではありません。内妻と認定されれば、手紙も面会も大丈夫です。しかし、内妻の条件は、「一緒に暮らしていること」なのです。
アパートの鍵を受け取りに行く日の朝に彼は逮捕されたので、一緒に暮らした経緯はありません。ですが、借りたアパートの書類はあります。いざとなったらそれで言い張るしかありません。
全てを見越して、差し入れの続き柄の欄には、「内妻」と書き続けてきました。
認定するのは、行った先の刑務所の所長です。万が一認めてもらえなかったら、そのときには婚姻届を出す覚悟でいました。  


これで、この拘置所に来るのも最後。


初めて来てから
4ヶ月が経過していました。
冬の景色から、桜が咲き、散り、葉が出て茂り、その日その日のわたしの服装を見ては、彼は季節の移り変わりを感じ取るようでした。
窓のないグレー一色の拘置所から、彼はどこに送られたんだろう。
雑居になって、どんな扱いを受けているんだろう…。 

わたしは、ゆっくりと待合室と売店を見回してから、外に出ました。もう二度と、ここに来ることは無い。

歩道橋を渡り、駐車場を横切り、コンクリートの門を出たところでわたしは振り返り、東京拘置所に向かって深々と一礼しました。 

すり減り、傷だらけになった
銀の靴は、その役割を終えました。

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発病

わたしはそれから7月に入るまで、まったく休みを取っていません。
出勤しない日には自分の仕事の講座や注文品やサンプル作り、果てはホームページ作りにまで手を出しました。
それを、その時期にやりたかったかどうか、今となってはわかりません。
しかし、生活を援助し応援してくれる人たちが居る以上、わたし自身もやる気があるところを見せなくてはいけないという
強迫観念にとらわれて、自分にムチを振るい続けました。
そしてそれを手伝ってくれる年下の友達も来てくれ、彼女の明るさにもわたしは救われていました。


体は、既に10日以上ものあいだ、ものすごい量で出血を続けており、それが先月止まってしまった反動だと考えるにしても、一向にしぼんでいかない大量の出血に、トイレに行くだび心が真っ青になりました。

調度新店舗の出店準備という重荷が重なり、貧血がすすんだのか絶えず視界は揺れ、階段を登ることどころか立っていることすら辛くなってきたわたしは、新店舗に近い町の産婦人科を訪れました。
自分でも、これは長引く・働きながら通院するためには店の近くがいいと考え、タウンページで調べて行ったのです。

本当に地域に密着した感じの「町の産婦人科」というたたずまいの医院でした。
10日以上激しい出血が止まらないと話すと、内診と超音波で調べられ、子宮の壁内部に小さい筋腫があることを告げられました。 
しかし、筋腫は子宮の内側にあるわけではなく、壁の中です。
それがこんな大出血をおこしている感じはしなかったのですが、人生でありえないくらいの経験をしてしまったわたしには、何が起きてもおかしくない感じもあり、いわれるままに投薬を受け、ホルモン剤の注射に通うことにしました。


その甲斐あってか、新店舗のオープンの日までには出血は少量にはなり、週一回のホルモン剤の注射と服薬で、新店舗に通うことは出来ました。また、細胞検査の結果、癌ではなさそうだということも判明しました。

しかし、心は晴れず、彼がどうしているのか、まだ東京拘置所に居るのか地方の刑務所に送られたのかもわからず、重く黒いものを胸の真ん中に抱えたままの毎日でした。

そして7月になり、わたしは休みを取って、ほぼ一ヶ月ぶりの小菅駅に降り立ちました。
東京拘置所にまだいれば7月分の面会ができる。
既に移送されてしまっているなら、その事実だけは把握できる。

正門の門番さんはわたしを覚えており、久しぶりだねえと声をかけてくれました。

面会の申し込みをしました。
わたしを目で呼んだのは、「えっ?」と見つめあったあの係官でした。

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砂の城

彼が受刑者となってしまい、会えなくなる恐怖から逃れるかのように、わたしはその週も目一杯人と会う約束を詰め込んでありました。
一日も隙間なく7日間ずっとです。
わたしは
極限の緊張状態にあり、そしてそれと比例するかのように、体調が崩れて行きました。

水曜日は、夕方メンバーとの飲み会を控えていたため、わたしは何となく
利便だけを考えて4時近くに面会に訪れました。
申し込み票を書き、申請し、目で呼ばれて許可票をもらいに行くと、月曜に「えっ?」と見つめあった係官がわたしを見つめて言いました。

『本人は今日から受刑者に切り替わりました。今日の面会が6月分となりますがいいですか?』

余りの衝撃にわたしの目から涙がわっとあふれ出ました。

わかっていたはずなのに!

拘留期間が延長になったことで油断していた!
なんの覚悟もなく、何気なく来たこの日が
「その日」になるとは…。

今日の面会を延ばしても、いつ彼がどこの刑務所に移送されるかがわからないため、いつ会いにくればいいのか判断がつきません。
今日会って、丸刈りにされたばかりの彼を見るのがわたしの務めだ…。
そう考えて、「はい」と答えました。


同じように東京拘置所内に居ても、被疑者や被告ではなく、
受刑者となるのです。
そしてそう遠くない日のうちに、どこかの刑務所に送り込まれる…。
そうすると、どこに行ったかは本人から手紙が来るまでわからず、面会も向こうからの手紙も月一通しか出せません。
彼も辛いでしょうが、彼はそれも罪の償いと矯正の一環です。
わたしはその辛さに耐えながらも、働き生きて行かなくてはならない。
支えて助けてくれる人はいる。でも、盾となり守ってくれる人も無く、抱いてくれる人も無い、一人ぼっちの女として、この先ずっと…。


面会室に入ると、程なく彼が入って来ました。
丸刈りの頭に、グレーの作業着姿でした。
おどけて頭を撫でながら入室してきましたが、わたしが既に涙をこぼしているのを見て、神妙な顔つきになりました。


彼の赤毛が好きでした。彼のクセ毛が好きでした。
彼が居なくなってから、わたしは一緒に歩いた街に彼を探し、繋ぐ手が無いことを悲しみ、彷徨いました。
その面影は消え、わたしの知らない
犯人顔の男性がそこには居ました。

説明によると、今朝突然、受刑者になりますと告知され、わたしが差し入れした、高い缶詰もスカシユリもかりんとうも、没収になってしまったそうです。
手元に持っていて時々読み返していたわたしからの50通を超える手紙も領置。
作業が与えられ、紙を折る作業をしたこと。
刑務所は、どこに行くのか当日まで本人にも知らされないが、栃木の黒羽が有力らしいこと…。

真面目に頑張って、一日も早く姫のところに帰れるよう耐えるから…。

彼のその言葉を最後に、非情にも刑務官は立ち上がりました。
わたしは彼の名を叫びました。

ドアの向こうに、彼は消えました。


わたしの体は、その日を境に悲鳴を上げて壊れ始め、砂の城は足元を削られて行きました。

拘置所のベンチで、長く長く泣きました。

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