事の重大さ。

今日はカウンセリングだった。

お姑さんが来月、帰っていらっしゃること、
デイサービスに通いだしたら、
わたしが、その帰りを待って、バスから引き取って、
家に入れて部屋に入れることをやることになった、と話したら、
カウンセラーさんは、ものすごくビックリして、
そんなことは、絶対に無理です!、
わたしがカウンセラーとしてストップをかけるし、
精神科の先生に話しても、当然ドクターストップですよ、と
早口になられた。

わかってる。
無理だってことは、わかってる。
もう12年もうつ病をやってるんだから、
どうしたら自分が潰れるかなんて、わかってる。

それでも、やるしかない、そういう選択をせざるを得ない状況なのだ。


カウンセラーさんは、「旦那さま、来てくださらないかしら、
わたしからお話しましょうか?」と言ってくださったが、
夫がカウンセリングに行ってくれることは、もうない。

以前、頼まれて、会社を休んでカウンセリングに行って、
文句言われて、それで金を払わされるんだぞ、
そんな馬鹿な話があるか!と
ものすごく怒っていた。
だから、もう、行ってくれるわけがない。

カウンセラーさんにはこう言った。
夫は、聞く耳を持たない人です。
人の意見は聞きません。
また、自分以外の誰も、信じていない人です。
なので他人の意見は、聞き入れません。

夫は、わたしを、障害者だと認めていません。
そもそもが病人であるとも思っていません。
何がどうなると潰れるとか、考えません。
自分の立場が優先なんです。

お姉さんの手前、娘ちゃんたちの手前、
わたしが一切手を貸さないことが彼にとっては恥じなのです。
わたしの気持ちや体調よりも、
その場にわたしを組み込むことの方を、優先する人ですから、
いくら、カウンセラーさんが心を尽くして話してくださっても、
徒労に終わるだけです。


わたしがそう言うと、しばし絶句されていた。

「じゃあ、どうするつもりなの?」
そう聞かれたのでわたしは現在持っている答えを伝えた。
「わたしがやります。そして多分、潰れます。
わたしが吐いて倒れてる姿でも見ない限り、夫は諦めないと思うので。」

お姑さんは、「要介護4」だ。

最高ランクが5なので、
もうこれは、しろうとが乗り切れる状況ではないですよ、
ましてや、病人であるあなたが世話をするだなんて、
あまりにも無謀ですよ。

事の重大さに、気付いていらっしゃらないんですか?
と聞かれた。



実際に、連れて帰って来てみないと、
おそらくは、わからないと思う。


施設に入れることは無理なんですか?とも聞かれた。
施設に入れることが、夫の選択肢には今はない。
世間体も悪いし、
亡くなった先妻さんの代わりに、頑張ってくださったのに、
ボケたからと言って施設か、という、見えない聞こえないバッシングに、
夫は怯えている。

家族が沢山いるのに、施設か、と思われたくないだろう。

キミがデイサービスからのお迎えをやってくれないなら、
俺が会社を辞めなきゃいけないんだからな、と、
脅された話もした。

カウンセラーさんは、何も辞めなくても、
もう、「要介護4」なんだから、
いくらでも介護ヘルパーさんを頼めるでしょう、
プロがやるべき仕事ですよ、
家族の心が壊れてからでは遅いんですよ。

あなただって、まだ一か月先のことで、
今もう、ここまで具合が悪くなっちゃってるじゃないですか。
そう言ってくれた。


それでも、わたしは、自分が倒れるまでは、
やらなくてはならないんだろうと思っている。

お姑さんの持ち物であるアパートに、
お姑さんのお金でリフォームしてもらって住まわせてもらっているのだ。

もちろん、夫は、請求されて、
お姑さんに対して、家賃を払って来ていた。

お姑さんの一階部分の家賃収入や、年金には一切手を付けずに、
一緒に生活し、何かを買ってやり、
いつの場合の入院、手術代も、
お姑さんの札束には手をつけず、夫が支払って来ている。

だったら、もう、いいじゃないですか、と言われたが、
わたしには、田舎に、年老いた両親がまだ生きている。

親が死んだら、どんな状況であっても、わたしが行って、
中心とならねばならないし、
その場合は、夫に常に隣にいてもらって、支えてもらわないと、
絶対にできないのだ。

自分がお姑さんに関して、何も頑張ることをせず、
でもうちの親の時はよろしくね、だなんて、言えるわけがない。
夫の力が絶対に必要なのだ。


そういう話を全部して、
そんなわけなので、わたしの心も、わたしの体調も、
優先順位は、低いんですよ、仕方がないんです。
彼にとってはわたしは、障害者ではないんですよ、と
話してきた。


やるだけやって、倒れてしまって、
わたしが廃人になっても、夫は困ることはないだろう。
今だって、接触は少ないし、
料理をしてあげてもいないし、
夫は、わたしがどうであろうが、特に問題はないのだ。

だから、倒れるまで、やるしかない。
倒れた時にやっと、ドクターから夫に話してもらうしかない。


カウンセリングを終えて、
今日は雑貨屋巡りをする気分にもなれず、
お弁当だけ買って帰るつもりでいたら、
急に、体がガクガク震え始めた。

ヤバい。
キレた。
わたしは慌ててマックに入り、ハンバーガーを食べて、
甘いシェイクを飲み、
非常用に持っているチョコも食べた。
手がブルブル震えて、ボロボロこぼしながら食べた。

わたしは、具合が悪いときは、その姿は夫には見せない。
理解されないのに、見せるだけ、余計にみじめだからだ。

こんな風にブルブル震えているわたしを、
夫は見たことがないだろう。
だから、病人であるという認識はない。


見えない病気って、本当に辛いね。
調子の悪さによって、顔が緑色になれば、と
ずーっと願っている。

見えているものだけが事実ではないのだ。

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ギフト。

気持ちがどんよりとしていて、
何もやりたくない。
体を動かすのもしんどい。

心が重たい。
楽しいことが、思い浮かばない。

「寝逃げ」という題名は、12年も書いているこのブログの題名に、
何度も上がったことだろう。

現実世界が辛いので、寝ることに逃避するのだ。

今日は、人として、もうダメでしょ、ぐらいの時間まで寝てしまった。
ちまが起こさずに、寄り添ってくれていたので、
不調を見抜いているらしい。



起きたら、空腹だった。

辛くても、腹は減るのだ。

コーヒーと、コンビニで買ったパンを食べたら、
もうぐったりして、座っていることもできなくなった。

ベッドに倒れこむと、ちまが、慰めてくれるように、
胸に乗って来た。



メル友さんから、メールをもらった。
彼女も自分の不調と闘っているのに、
わたしのことを心配してくれて、メールをしてきてくれたのだ。

この先、会うことはない人と思うので、
全部、本音を書いた。
それを受け止めてもらえて、少し、救われた。


昨日はそうめんを茹でて食べただけだった。
こういう時に、食事をおろそかにすると、余計に悪くなる。

最近調子が優れず、料理らしきことができない。
どんどん野菜を腐らせてしまうので、
もう、野菜ジュースに頼ることにした。
ドラッグストアだと60円台で買えるので、
買いだめして来よう。

でも今日は、炊いたご飯が食べたかったので、
お米を研いで、お揚げとワカメとねぎのお味噌汁を作り、
解凍した、一口大の豚肉を焼いた。

質素でもいいから、ちゃんと食べないと、
どんどん心は荒んでいく。


息子夫婦が、13・14日に、帰省してくれた。
父が、息子に何か言うのではないかと、わたしは心配でたまらず、
落ち着かなかった。

今日、息子に、何も嫌なことはなかったか?とメールしたら、
「大丈夫。いつも通り、楽しかったよ。」と返事が来た。

なにもなかったようで、良かった。
息子が傷つくことだけは避けたい。

そして夜になってから、
お嫁ちゃんが、メールをくれた。
彼女のほうからくれることは珍しいので、
どうしたかな?と思ったら、
わたしの実家で、二日間、どんな風に過ごしたかが詳しく書いてあり、
おじいちゃんも、おばあちゃんも、元気そうでした、とあった。

さらに、「おばあちゃんとケータイの番号を交換しました。
これからはメールのやり取りができるので、楽しみです。」
と、書かれてあった。

最後にわたしの体調を気遣う言葉で締めくくられていた。


この子は、わたしにとっての、「ギフト」だと思った。
嬉しくて泣いた。

息子が生まれて、あまりの可愛さに、
絶対にマザコン男に育ててやる!と思っていたのに失敗し、
絶対に嫁をいびってやる!と思っていたのに、
余りにも可愛らしいいい子が来ちゃって、
いびるどころか、もう、可愛くてたまらないのだ。

人さまの娘ちゃんなのに、どうしてこんなに愛おしいんだろう。

わたしにとって、息子は、
世界で一番愛している、命より大切な存在だ。
いつも書くように、息子を救うためなら、
わたしは微笑みながら死んでいく。

でも、その大切な息子を、幸せにできるのは、
わたしではない。
お嫁ちゃんなのだ。

この性格のいいお嫁ちゃんと結婚出来て、
息子は本当に幸せなのだ。
それがよくわかる。
二人は親の前でもイチャイチャする。
それすらほほえましくて、わたしは彼らをずーっと見ていたい。

息子はわたしの天使。
お嫁ちゃんは、わたしに与えられた「ギフト」なのだ。


お嫁ちゃんには、
詳しく話すことはしないけど、
わたしとおばあちゃんは、もう無理なので、
よろしくお願いします。
ありがとうね、とメールをしておいた。

息子夫婦の間で、どういう会話がなされるのか、
それとも、お互いがお互いに黙っているのか、
それはわからないし、どちらでもいいけれど、
とにかく、わたしのまわりは、天使ちゃんだらけなのだ。


わたしが、頑張ろうとすると、誰もが止めるけど、
自分の状態がどうであれ、
頑張らなくてはならないときって、あるよね。

愚痴を言わず、しっかり頑張ろう。

わたしは、生きて来た意味がわかった。
「負の連鎖を断ち切る」ためなのだ。

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覚悟せねば。

土曜日、夫と一緒に夕飯を外食して、
お姑さんの話を聞いた。

体の回復は極めて順調な仕上がりで、
階段もしっかり登れるし、
卓球もやれるそうだ。

お姑さんは、先妻さんがいらっしゃる頃、
一家に主婦は二人要らない、と引退宣言をされて、
60歳で、卓球を始められた。

以来、30年近くやって来られた。
シニアの部で何回か優勝もしていて、
わたしが嫁に来たときも、週に3回は卓球に行っていた。

だから、足腰も丈夫で、
浅草の育ちだから、話し方もちゃきちゃきしていて、
認知症であることは、よくよく話を聞かないと、
見抜くことができない。

前回の面談では、もうすでに、だいぶ認知症が進行していたのに、
見抜いてもらえず、
「要支援」の、1だか2だかしか、認定されなかった。

手術した病院にいるうちに、もう一回面談を受けたら、
もう、「要介護4」となっていた。
ちなみに、「要介護5」が一番重いらしい。


けれど、今回骨折で入院し、
家に一人でいる時より、はるかに色んな人と喋るわけだし、
特に、リハビリ専用の病院に移ってからは、
部屋こそ、巨大な個室だけれど、
食事はホールでみんなで食べるので、
あんなにバカにして嫌がっていたデイケアとかに、
行かせることが出来そうだ、と夫は言う。

またヒキコモリになる前に、この流れで、通えるようにしたいそうだ。
人と喋ったり、一緒に何かをすることが、
嫌なことではないんだと、お姑さんも知ったようだ。

けれども、デイケアに行くと言っても、
「要介護4」の人が、自分で時間を見計らって、
着替えたり準備をしたり、出来るはずがない。
誰の服でも着てしまうようだし、
歯磨きとかもできてないらしいのだ。

つまり、デイケアに行くには、支度をしてあげて、
送り出してあげる、家族が必要だということだ。
バスは通りまでしか来てくれず、路地には入って来られないし、
家の中まで迎えには来てくれないものね。

そこで夫が、
朝は、キミには無理だろうけれど、例えば午後の4時とかに、
バスで帰って来た時に、
お出迎えして、家に入れて、部屋に連れて行くというのを、
やってもらえるか?と聞かれた。

それはもちろん、わたしがやるべき仕事だろうと思う。

夫は、そうじゃないと、俺が会社を辞めなきゃいけなくなる、と、
かぶせて来た。

プレッシャーに潰れそうだ。

けれども、お姑さんの持ち物であるアパートに、
お姑さんのお金でリフォームしてもらって住んでいる身だから、
それくらい、やって当然だと思う。
自分でも思っているし、他の家族全員が思っている。


お姑さんはお金持ちだが、
今の、入院費、手術代、すべて夫が払っているとのこと。
それは、自分のお姉さんや、お兄さんの奥さんには、
言っておいてもいいんじゃないかな?

先妻さんが病気で亡くなられて、お姑さんが主婦に復活して、
子供たちのことを夫と育てて来たのだから、
普通のおばあちゃんとは、また違う。
きっと、夫は、
母親を使うだけ使っておいて、ボケたら施設に入れるのか?という、
見えない非難を恐れているようにも感じる。


もう、お姑さんは、住所はわからないし、名前も書けなくなったそうだ。
家に連れて帰って来て、出入り自由にしたら、
徘徊になってしまうのは明らかだ。

だから、わたしも、頑張るしかない。
時間を色々調整して、デイケアから帰って来る時間帯に、
居るようにしなければならない。
夫が会社を辞めるのは、絶対に、良くないからだ。

けれど、多分、みんなが、疲れ果てる日が来るように思う。
お姑さんは、元気で、体には悪いところがない。
まだまだ充分な寿命がある。


わたしの祖母は、96歳まで生きた。
後半はさすがに寝たきりになったが、最後まで、ボケなかった。
在宅で、両親と、父の姉弟妹が交代で世話をして、
家で亡くなった。

いつまで生きるのか!という悲鳴が上がったくらい、
壮絶で、ピリピリした現場だったようだ。
全く耳が聞こえなくなったので、わたしは最後の夏、
チラシの裏に、
「仕事があるから、帰るね。」と書いて祖母に見せた。

その数日後、息子(当時小学生)が帰る時には、
窓越しに、手を振って、別れたという。

その二日後に亡くなった。

本当に介護は、大変だと思う。
子供が数人いても、それぞれの家庭があるし、
親が長生きしてるということは、子供ももう、
老齢にさしかかっているということだ。
体もしんどい。


今月中に、病院からケアマネの人が家を見に来て、
実際にどういう暮らしを着地点としてリハビリを終了するかが、
決まるとのこと。

今の段階で、考えても仕方がないことだが、
やはり、どんよりしてしまう。

正解がない分、みんなが疲労する。
うまい着地点がないものかと思うのみだ。

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13センチ。

お姑さんが入院しているので、
日中に、母屋に入ることがしやすくなった。

お姑さんは動物的なカンの良さで、
いつもわたしの存在を嗅ぎ分けて、
ムギとひっそり過ごしていても、必ず邪魔しに来るので、
取りに行きたいものがあっても、
母屋には、入れずにいたのだ。

書斎のデスクの引き出しの中身を持ってきて、
全部整理した。
9割、要らないものだった。

和室のクローゼットからも、
息子のぬいぐるみや、縫ってくれたエプロンなどを、
持って来ることが出来た。

幼稚園に入って、初めて持って行ったお弁当箱も取ってあり、
その中の、桐の箱に、息子の乳歯がちゃんと保管されていたのを見つけて、
わたしは泣いた。
そうだよ、捨てるわけがないじゃないか。
たった一人の、命よりも大切な息子の、乳歯。

初めて使った手袋や、愛用していたサスペンダーも出て来た。

息子が一緒に寝ていた、「ももた」というぬいぐるみは、
今、わたしと一緒に寝ている。

そして、絶対に、靴もあるはずなのに、と思っていた。
息子の、ファーストシューズを、わたしが捨てるはずがない。
どこかにあると思うのだが、
クローゼットからは出て来なかった。

どこにあるんだろう。
もう一度見たい。触れたい。
手元に置いておきたい。

でも、どうしても思い出せず、探す先ももうないように思っていた。



今日、母屋では、夫と長女が、
母屋の巨大なシューズクローゼットの整理をしていた。
ずっと大家族で暮らして来た家庭なので、
下駄箱、というレベルではない。
大きな壁面のシューズクローゼットだ。

入れられる量がすごいので、歴代の靴がいっぱい入っており、
捨てるという選択肢を選んで来なかったようなのだ。

そこに、持ち主のわからない靴があるので、
キミのじゃないか、見に来て欲しいと夫から電話があり、
行ってみると、
すでに、捨てる靴は大袋に入っているようで、
残すか、捨てるか、しかも誰の靴なのか、というものが、
20足ほど並べられていた。

わたしには、見覚えのある靴が一足だけあった。
アシックスの、ウォーキング用の紐の靴だ。
アシックスの専門店で買った覚えがある。
まだ新品同様だったので、それを引き取ることにしたが、
他のは全部わたしの物ではなかった。

むしろなぜ、そのウォーキングシューズを残して引っ越したのか、
わからない。
歩きたくなかったのかな。
アパートに越すときは、土曜日に仕上げが終わり、
すぐさま翌日日曜日にとりあえず引っ越したので、
積み残しはいっぱいあった。

お姑さんが居ないあいだに、あと、どこに何を残してあるか、
だいたい把握できたので、良しとしている。

靴を一足抱えて、じゃあこれだけいただいて行きます、と
帰ろうとしたら、夫が、待って、もう一つ、と声をかけた。

何だろうと思ったら、
わたしの、息子の靴が入った箱が、一番下の段にあったよと、
見つけてくれたのだ。

あああ!
そうだったのか!

本当は、クローゼットで、ももたと一緒に保管したかったのだが、
靴だから、悪いかなと思って、
シューズクローゼットの、一番下に、
入れたのだと思う。
息子の名前がわたしの字で書いてあり、
赤ちゃんの時のくつ、と書かれていた。

箱を開けると、ファーストシューズと、
実際、歩くようになって履いた靴2足の、
合計3足が、入っていた。

初めて履いた、ちいちゃな白いふわふわの靴下も、入っていた。

こんなところにあったんだ…。

わたしは、人の引き出しを勝手に見たりすることは嫌いなので、
母屋のシューズクローゼットも、全く見る機会がなかった。

31年前の、息子の靴。

もっと小さいかと思ったけれど、
一年で思いのほか、赤ちゃんって大きくなるようで、
ファーストシューズは、13センチだった。
イエローオーカーの、伸縮性のある靴。
まだちゃんと歩けないときの靴。

そのあと、ほどなくして歩けるようになり、
買った靴が、ミキハウスの白地に赤と紺の靴と、
白黒のギンガムチエックで、ミッキーマウスが入っている、
ジッパーをあけて履く靴だった。

よく覚えているよ。
この靴を履いて、公園に行ったんだよね。
はっきり、覚えているよ。


部屋に持って帰って来て、ひとしきり触って、眺めて、
新しい箱に入れ替えて、
息子の物を保管している箱に、収納した。

誰も、分かち合える人がいなくて残念だけど、
息子が次に来たら、見せてあげよう。

こんなに、ちいちゃかったんだよ。

そしてわたしは、キミの思い出をこうして大切に、
持ちながら生きているんだよって、見せよう。


わたしの両親は、わたしに関するものは、一切持ってないと思う。
わたしに対して、思い入れがないのだ。
息子の写真は、わたしが写真立てに入れたのを持参したので、
無理くり飾ってはあるが、
わたしの写真なんてないし、何もかも全部捨てただろうと思う。

可愛い靴を手に入れられて、今夜はかなり幸せだ。
良かった、見つかって。捨てるわけがないもの。

大事な靴の宝物。

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ちまの腎臓。

手のひらに乗るサイズで、うちに来たちま。
最初から、全く人見知りもせず、新しい家に怯えることもなく、
キャリーから出てきたら、すぐに探検を始めたちま。

「ちま」という名前は、仮名だった。
保護主さんが、預かった時に、ブログで名前の募集をした。
届いた名前を全部紙に書き、折りたたんで瓶に入れ、
彼女の旦那さまが、一枚引いた。

そこに書かれていた名前が、「ちま」だったのだ。
一昔前に、よくあった名前の、
「チビ」と「たま」から、一文字ずつ取ったのが由来だそうだ。

こうして、ちまはちまとして、募集がかけられた。

性格がとにかく良くて、人懐っこいので、
ものすごい申し込みが入り、
募集は一日ちょっとで打ち切りになった。
倍率は約30倍だった。

そのちまを、うちがゲットできたのだ。
本当に幸運だった。

名前は、「みかん」か、「あずき」にしようと思っていた。
けれど、実際にちまに会ってみて、
譲ってもらえると決まって、その帰り道、
車の中で、声に出して、子猫を呼んでみた。
「みかーん。」
「あずき~。」
けれども、しっくり来ない。
「ちま」という名前が、あの子にはぴったりすぎるほど、ぴったりなのだ。
なので、これは珍しい例になるけれど、
ちまは、ちまという名前のままで、譲っていただいた。


ちまはものすごく可愛かった。
猫じゃらしに向かって手をパーにして、大ジャンプをしたし、
背中を向けるとすぐに背中に飛び乗られ、
わたしのTシャツは、すぐに穴だらけになった。

わたしがトイレで座っていると、暇そうに見えるのか、
必ずついてきて、ジャンプして膝に乗り、
そのまま赤ちゃん抱っこで、
ちまちゃんの歌を延々何十分も歌って育てた。


そんなちまも8歳になった。
猫は7歳からがシニアの入り口だというので、
去年から、毎年検診を受けることにした。

今年の3月、血液検査で、
クレアチニンという物質が、まだ、基準値内とは言え、
高めの数字になったのを先生が気にして、
一度、念のため、詳しく外部検査に出してみませんか?と
すすめてくださった。

その時に病院で採取した血液をそのまま流用できるとのことだったので、
夫が承諾して、検査に出してもらった。
猫シスタチンの検査ということだった。

すると、結果は、シスタチン数値が高く、
ちまの腎臓は、すでに腎不全が始まっていることが判明した。

病院内の血液検査だけでは、見抜けないものだった。
しかも、まだ、ごく初期なんだろうなと思ったら、
すでにステージ2だということがわかった。
ショックだった。

しかし、ラッキーなことに、4月に、
猫用の、腎不全の薬が、発売になったばかりだった。
とても評判がいいらしく、うちもちまに、すぐにそれを飲ませることになり、
食事も、おやつは一切無しで、
苦いお薬を食べさせるために使っていたウェットの餌も、
腎臓病の子が食べるシチュー缶に切り替えた。

サンプルでもらったシチュー缶は、
それまで食べていたウェットとはあまりに様子がちがったので、
食べてくれるか心配だったが、
ちまは喜んで食べてくれて、
お薬も混ぜて与えることに成功した。

それまであげていた、おかかもちゅーるもやめた。
腎臓用のフードで、シーバに全くそっくりなのがあって、
それをやったら、異常に喜んだので、
夫に頼んで、それをちまのおやつとして買ってもらった。

こうして療養生活に入り、
6月にまた、血液検査に出して調べてもらった。

その結果を、土曜日に聞いたのだが、
3月に、13.7あったシスタチンの数値が、
なんと、4.5まで、下がっていたのだ!
劇的な回復だった。
減り続けていた体重も、持ち直して、ちまは元気。

腎臓の、ダメになってしまった部分はもう治せない。
そういう薬ではない。
けれど、これ以上悪化することを、止めることができる。

酷くなってしまえば、皮下点滴を行わなくてはならないが、
ちまはまだ8歳なのだ。
いずれ、そういう日が来るにしても、今はまだ早すぎると思ったので、
本当にホッとした。
ありがたい。


病院が午前中だったので、
ホッとしたらもう、何かを食べる気力もなく、
帰って来て、ちまと一緒にバタンとお昼寝をした。
わたしがお昼寝をするときは、ちまは必ず、寄り添ってくれる。
良かったよちまちゃん。
長生きしようね。
ママ、ちまのこと、大事にするからね。

早く見つけてもらえて良かった。
ちょうど薬が発売になった時期で良かった。

愛おしい、天使のちまちゃん。

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