寂しいってことがわかった。

わたしは、一人でいることが楽なので、
寂しさを、感じることがない。

小さいころは、親が平気でわたしを置いて、
遊びに行ってしまうような家庭だったので、
孤独ではあったが、
本を読んだり、イラストを描いたり、詩を書いたりして過ごした。

山に登れば、水晶も掘れた。
満天の星空には天の川が流れ、
星座表を持って、星座を探した。

一人で楽しむ術を知っている子供だった。



だから今は、テレビを見られるまで回復したし、
DVDも見られるし、本も読めるようになったので、
全然、寂しくなんてない。

でも、ただ一点、
すごく寂しいことがあるのを思い出した。

ムギに会えないことだ。


つい先日まで、毎日ムギに、会えていた。
夕方は、庭先や小屋の前にいてくれたし、
夜中は、留守でも、呼べば帰って来てくれていた。
ずっと、会えていたのだ。

それが突然、ムギが、素っ気なくなった。
小屋にいないし、庭に居て、呼んでも、なかなか来ないし、
来たと思っても、すぐに離れて行ってしまう。

夜中も留守が多く、
呼んでも呼んでも、帰って来てくれない。

その時が、例えようがないくらい、寂しいのだ。

もちろん、外に返した時点で、
いつでも会える猫ではなくなったのだから、
全面的にこちらの責任だ。

いくら床があって小屋があって、ベッドがあっても、
どこに行くかは、ムギの自由。
帰って来る来ないも、ムギの自由。

だから、帰って来てくれたときは、本当にいつもかも嬉しくて、
ありがとうねムギ、嬉しいよ、と伝えて来た。

気温が上がって、暑くなったら、
もう、くっついて過ごす必要もないので、
ムギはおやつをもらったら、さっさと庭先に行って、
ダラダラしている。
全然、隣に寄り添ってくれない。

冷たい風の中、ムギを毛布でくるんで、
二人で耐えていた真冬の方が、断然幸せだったよ。



今日も、夕方行ったが、ムギは留守で、
朝、夫にもらった餌にも手つかず。
呼んでも帰って来ない。


なので、一旦部屋に戻り、洗濯を回して、それからまた行ったが、
やっぱり帰って来ていない。

悲しい。

日曜日にムギのベッドを、夏物の、パイルのオープンベッドに替えて、
冬のドームベッドは洗濯機で洗った。

それが乾いたので、夫の和室の押入れに保管してもらおうと、
取りに行って、階段を下りてきたら、
ちょうどムギが、通りから路地に走って帰って来た。

「ムギちゃん!」と呼ぶと、ムギは元気に返事をした。

庭先でゴロンゴロンしたので、おいで!と誘って、
ムギにムギのリビングに来るように声をかけた。

でも、なかなか来ない。
来たと思ったら、ちょっとくっついていただけで、
すぐ離れてしまう。

つまんないよ。

あんなに、「離れたくない!」って、わたしにしがみついていたのに、
なんで突然、そんなにつれなくなっちゃうの?

寂しいよ。

群がって来る蚊に耐えながら、ムギを待っているのにな。

毎日会って、ラブラブしたいよ。
勝手なこと言ってるのは承知だけれど、
会えないと、本当に寂しい。

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辛かった仕事。

わたしは、仕事で成果を上げることでしか、
自分を評価する手段を持っていなかった。

だから、とても努力をしたし、
その成果は、いつもあげて来たと思っている。

でも、生きて行くために、合わない仕事をしていた時期もあった。


樹脂粘土を仕事としていて、
いろんなオファーが来るようになり、
仕事としては、とても魅力的だった。
わたしは、思った色をすぐに作り出すことが出来たし、
デザインは無尽蔵に湧いた。

しかし、お教室をやるために
高い家賃の部屋を借りていたため、
日々の暮らしは、回っていかなかった。
開業資金として、区から借りた借金の返済も苦しかった。

だから、ずっとバイトをしていた。
仕事を成立させるための仕事。
バカみたい。
食えない仕事は、ただの趣味だと言われたが、
当時は、仕事依頼は次々に来ていた。
ただ、生活を維持できる金額を稼げなかったのだ。


バイトは、どれも、辛かった。
思い出したくもない。

ファミレスの厨房では、よくパニックになり、
固まってしまい、
ランチのラッシュ時は、地獄だった。
ファミレスは、ディナーよりも、ランチタイムのほうが、
圧倒的に客が集中して、辛い。

ある時、手のひらに、大やけどをした。
でも、もう、ランチラッシュが始まっていたので、
持ち場を離れて、手を冷やすことなんて許されない。

辛くて辛くて、涙が出た。

しかも、その夜は、粘土の仕事で、
どうしてもイラストを描かなければならない日だった。
わたしは、氷の入った袋を握りながら、
泣きながら、描いた。


夜のスナックの仕事も、辛かった。
相手は、理不尽な酔っ払いばかりである。
バカみたいに真面目なわたしに、勤まるわけがなかった。

それでも、時給のほかにもらえるチップもあったので、
我慢して働いた。


銀座での仕事も辛かった。
名刺やハンコを安く早く仕上げる店だったのだが、
経営者が、狂気的だった。

狭い店内には、数々の機材が動いていて、
その輻射熱で、ものすごい暑い。
でも、経営者が、エアコンを入れてくれないのだ。

わたしは、汗だくになって接客し、印鑑を彫り、
パソコンに文字を打ち込んでいた。

汗だくでレジを打っているとき、
ある中年の奥さんが、
「あなた、可哀想に。こんなに暑いのに。」と同情してくださった。

チラシ配りの作業もあり、地図を持たされて、区画を指定され、
毎日、どこかしらに、チラシを入れて歩く。

時期は真夏で、
場所は銀座。
着飾って日傘を差している人をすり抜けて、
汚いエプロン姿で、
ポストにチラシを入れていく。
銀座だけでなく、有楽町や築地にまで行った。

わたしは、毎日、辛くて辛くてたまらなかった。
今まで、感じたことにない、異質な苦しみだった。

外も暑いが、店も暑くて、
わたしの体からはねっとりとした汗があふれ出し、
ちょっと濃い色の服を着てると、
汗が、塩を吹いて、
服が、マーブル模様になった。

わたしはそれが恥ずかしくて、せっかく銀座で働いているのに、
一度も、デパ地下にも寄らず、
毎日、小走りに地下鉄の階段を駆け下りて、帰った。


その職場で、決定的に精神をやられ、
わたしは、だんだん、仕事に行けなくなっていった。
激しい頭痛、発熱。
天地のわからなくなるような、激しいめまい。

ついに、電車に乗ると、吐きそうになった。

途中の駅で降りて、ホームの椅子で、袋を口に当てて、
伏していた。

もう、無理だ。
もう生きていけない。



わたしは、こんなわたしでいいと言ってくれた、夫に、
救ってもらうことにした。



今はもう、働ける状態にはない。
障害者手帳も2級になった。

料理もできなくて、自分が食べるものを細々と作るだけ。
部屋を綺麗に保ち、
猫たちがすこやかで、気分よく過ごせるように気を配る。

少ない友人と、ちょっとだけ接している。

親のことはもう、諦めた。



しーちゃんから、メールをもらった。
あなたのことが、大好きです。
いつでも側にいます、と書いてあった。

わたしは泣いた。

甘えてもいいんだね?

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どうして泣いてはいけないのか。

わたしは、泣くことを、禁止されていた。

泣くと、怒られるのだ。
だからいつも、こっそり、声を殺して泣いた。

どうしたの?と優しく聞いてくれたり、
慰めてくれる母ではないと、
幼いながらに、わかっていたのだ。


また、小学2年生の時の話だが、
一年生には、学級委員がないが、2年生からは、
クラスに、男女一名ずつ、学級委員が決められる。

立候補がなければ、選挙で決めていたが、
小学2年で、選挙が行われたかどうか、記憶にはない。

でもとにかく、わたしは、学級委員だった。

みんなの手本とならねばならず、
みんなを統率して、意見をまとめねばならなかった。

わたしは、自分の器の小ささに気が付いていなかったので、
そこから、中学3年までの間、
毎年学級委員だった。
無理を重ねていた。



小学2年のときですら、しっかりせねば、と
わたしは緊張した学校生活を送っていた。

ある時、休み時間に、ブランコに乗っていて、
わたしは漕ぎすぎて、後ろ向きに、落ちてしまい、
したたかに頭を打った。

幸い、血は出なかったが、
あまりにも痛かったので、わたしは、思いがけず、
泣いてしまったのだった。

7歳の女の子がブランコから落ちて、
痛くて泣く。

これは、別に、変わったことでもなんでもないと思う。

でも、わたしは、自分が泣いてしまったことを恥じた。
学級委員なのに、泣いてしまった!
泣いたのがばれたら、お母さんに怒られる!

けれど、その時、周りにいた同級生の子たちが、
「大丈夫?」
「痛いの?」
「保健室に行く?」と、
口々に、心配して、慰めてくれた。

そのことに、わたしは、びっくりした。

痛いときに、泣いてもいいの?



わたしは、痛くても辛くても、泣けば怒られたので、
泣くことが罪悪だと、思わされていたのだ。
泣いたことで、周りの子が優しくしてくれて、
それがとても、びっくりしたことだったし、
嬉しかった。


わたしの母は、自分自身が、不安でいっぱいの人である。
だから、わたしが、何か厄介ごとを持ち込むことを、
ひどく嫌っていた。
相談にのってくれる人ではなく、
慰めてくれる人ではなく、
優しくされた記憶もない。

その後も、泣いたら怒られるのは変わりなかったので、
わたしは常に、ひっそり声を殺して泣いた。



また、母は、わたしが昼寝をすると、怒った。

小学生でも、中学生でも、
体調が悪かったり、具合が悪い日だってある。
疲れてる日もある。

わたしが、学校から帰って寝ていると、
仕事から帰って来た母が、怒りながらわたしを起こすのだ。
「親が働いて帰って来てるのに、寝てるとはけしからん。」
という、理由だった。

働きだした時も、休みは日曜日しかなく、
毎日が残業で、ヘトヘトだったため、
日曜日はぐったり寝ていた。
すると、ノックもなく母が入って来て、
「いつまで寝とるの!」と怒る。

夜は夜で、「いつまで起きとるの!」と怒る。


幸せだった経験が、少ないなあとしみじみ思う。


もちろん、もっとひどいご家庭はあるし、
下には下があるけれど、
わたしは、幸せを感じたことが少なかった。

早く家から出たかった。

家出も考えた。

その時は、車をもう持っていたので、
毎日、ちょっとずつ、必要なものを積んで行き、
それが満杯になったら、
朝、「行ってきます」と言って、出勤するフリをして、どこかに逃げる。
そして、家には帰らない。
そんなことを、夢見ていた。



今のこの部屋は、天国だ。
泣くのも、歌うのも、眠るのも、自由だ。

綺麗に保って、ていねいに、幸せに暮らそう。

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悲しかった工作。

小学生の時の、
楽しい思い出が、すごく少ない。

わたしが集団生活に合っていないことも理由だし、
6年間のうち、1・2.5年の時に、
最悪な担任に当たってしまったせいだ。

貴重な子供時代の、3年間を、めちゃくちゃにした、
狂気の担任だった。

これは、同じ経験をした人にしか絶対にわからないので、
ここには書かない。

とにかく、その、狂気の担任を、いかに怒らせないで済むかを、
わたしたち子供は、最優先で考えて行動した。

楽しいわけがない。



小学2年生の時だったと思う。
工作の授業で、「舟」を作る、という課題があった。

小学生のお道具箱には、ハサミとノリと定規くらいしか入っていないので、
それぞれ、使えるものを、自宅から持って来るように言われた。

母に言うと、透明の、塩ビのケースを渡された。
プチトマトが入っているような、丸い形だった。

水が浸入しないように工夫する必要もあるし、
バランスが取れてないと沈没してしまうという、
難易度の高い工作だった。

わたしは、セロテープが使いたかった。
本体が透明なので、セロテープで貼りたいのだ。

けれど、うちには、文房具らしきものは、一切、なかった。

セロテープも、ホチキスも、なかった。

そして、必要なら買ってあげようという気も、
親は持っていなかった。

父が、押入れの引き出しから、
緑色と黒の、ビニールテープを出して来て、
これを使え、と言った。

当時、父は、工場の電気関係の部署で仕事をしており、
そのビニールテープは、工事用の、絶縁テープだったのだ。
それしか、なかったのだ。

さすがに、黒は嫌だったので、緑の絶縁テープを持って、
翌日学校に行った。

みんなは、セロテープやホチキスを持っていた。

わたしが作った不格好な船は、
ほぼ全身が、緑色になった。
「舟に名前を付けて旗を立てなさい。」と言われ、
わたしは、つまようじに小さい三角の紙を貼り、
名前は、思い浮かぶこともなく、
仕方がなく、見たまんま、「みどり号」と、書いた。



その日の放課後だったと思う。
わたしは、クラスメイトに呼び止められた。

その子の後ろで、泣きはらした目をしていた女の子がいた。
なんだろう?と思ったら、
女の子が、泣きながら、
「なんで、みどり号なの?」
と言った。



その子の名前は、みどりちゃんだったのだった。



わたしは、答えに困った。
わたしの家がいかに貧乏で、セロテープすら買ってもらえないと、
小学2年生で、説明ができるわけがない。
頭では、そういう内容がぐるぐるしているが、
上手に言葉にして、話せるわけがない。

しかも、わたしが作った「みどり号」は、見るも無残な、
へたくそで不格好な舟だった。
それに、自分の名前を付けられて、
みどりちゃんは、ショックだったのだと思う。

事実、みどりちゃんは、工作や美術が得意な子だったから、
余計に、恥ずかしかったのだと思う。

わたしは、返すべき言葉が、なかった。
謝ることも、出来なかった。
説明もできなくて、「なんで、って言われても…。」と言葉を濁し、
逃げるように帰った。


泣いていたのは、みどりちゃんだったが、
泣きたかったのは、わたしもだった。

なんでセロテープぐらい、買ってくれなかったのか、と、
悲しくて、一人でこっそり、泣きながら帰った。



わたしが大人になってから、
道具や文具に執着するのは、
この事件があったからかもしれない。

自分の道具は自分のものであり、
本当に気に入ったものを買い、
適切に使い、大切に保管する。

みどりちゃんには、悪いことをしたが、
泣きたかったのは、むしろ、わたしだった。
そして、それを聞いて慰めてくれる母ではないと、
すでにわかっていたため、
一人でこっそり泣いただけで、
わたしは、今日まで、このことを、誰にも話して来なかった。

甘えられる母親ではなかったのだ。
わかってくれて、なぐさめてくれる親ではなかったのだ。


悲しいことの多い、小学生時代だった。
走れば遅いし、泳げないし、自転車にも乗れないし、
絵は下手だし、人望もないし、
そんなわたしとずっと寄り添って来てくれたしーちゃんには、
心から感謝をしている。

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何様のおつもり?

毒母を持つ人にもいろいろあって、
幼少期にすぐ気が付いて、自立できるようになるまで我慢し、
高校を卒業するとすぐに、遠くに就職してしまい、
難を逃れる人もいる。

それでも、心に積もり積もったものは、とても重たいと思う。

親が年老いて、介護が必要になったときに、
わたしが子供の頃、あんなひどいことをしたくせに、
なんで介護なんて!、と、気付く人もいる。

その時には、その方の人生も終盤に向かっているので、
取り戻せない悔しさが大きいし、
介護をやらないわけにもいかないし、
すごく辛いと思う。

そして、わたしのように、
自分が子供を持ってみて、初めて、
子供って、こんなに可愛いし、守りたいのに、
なぜ、わたしの親は、あんなだったのか、と、
疑問を抱く人も、多いらしい。



もちろん、わたしも、ひどく未熟な親だった。
息子に当たってしまったこともある。
叩いたこともある。
全部、わたしが悪かったと思う。
一生反省する。

でも、精神的な虐待だけは、せずに済んだと思う。

辛くて泣いている時には、抱きしめて、一緒に泣いた。
それは、わたしが、母親から最もしてもらいたかったことだった。



父も、ある意味、母の言いなりだった。

わたしが18歳で働き始めて、
5月に、初めての給料をもらったのだが、
母が平然と、こう言ったのだ。
「月に使ってもいいお金は、2万円やで。」

勝手に決められたので、どうしてなのか聞いてみたが、
「お父さんだって、月に2万円やから。」
母はそう答えて、「ね~お父さん。」と、
父に同意を求めた。
父も、「そやな。」と答えた。

進学校にいながらも大学には行かせてもらえず、
働いた給料で、使える金額を勝手に決められ、
残りは、全部父に渡して、郵便局に貯金してもらうべし、と、
勝手に、決められた。

若い女の子が月に2万では苦しい。
服だって、化粧品だって買いたい。
わたしは特に、音楽にお金を使ったので、
常に、貧乏な状態だった。

それでも、高校の時の友人に会った時は、
見栄を張って、食事をおごった。
わたしは、働いてるから、と言って。
それは、意地だった。

自分の給料で免許を取り、
自分の貯金で車も買った。

友達から、旅行に誘われても、行けるわけがなかった。
日曜日しか休みはなく、
使っていい金額が月に2万円では、
旅行になど、行けるはずがない。

親のお金で大学に行って、親のお金で旅行に行こうという友人を、
わたしは、内心では、蔑視していた。



門限も、夜10時と決められていた。
20歳過ぎて尚、10時には家に帰らなくてはならない。
田舎のことなので、電車は、一時間に一本しかない。
それを逃すわけにはいかない。

宴会が盛り上がって来たころには、
わたしはいつも一人、帰るしかなかった。

親に抗議した。
なんで10時なのか。
なんで、話し合いもなく、勝手に10時と決めたのか。
そういうときは、母は父を必ず味方につけて、
「ね~、お父さん。」と、甘えた声を出す。

門限は、「うちは、そういう家庭なの。」と言われた。

わたしは、会社の寮に入ろうかと画策したことがある。
けれど、事前にバレて、絶対に禁止、と言われた。


月にいくら使おうが、自分が働いたお金なんだから、
いいじゃないか。
せめて、なぜ、話し合いが持たれないのか。

その日のうちに帰って来るのだから、門限が12時でもいいじゃないか。

20歳過ぎても、友達の家に泊まりに行くことも、
絶対に禁止だった。

何もかもが、がんじがらめで、
わたしは、家庭に安らぎを感じたことは、一度もない。

最初の結婚でも、嫁は奴隷以下だったから、
もちろん、安らぎも幸せもない。



最初の結婚をするとき、
会社を辞めて、
持っていた定額貯金の証書をすべて、父に渡した。
貯金は250万あった。

けれど、名古屋文化の、派手な嫁入りに、
そんな金額では足しにしかならないことはわかっていたので、
わたしは、一万円も持たずに、
全額、父に渡したのだ。
これしかない。
これで、あとは、頼みます、ということだ。

そこから、何かを買うときは、
例えば、下駄箱に靴がないまま荷物が相手方に入るのは、
恥ずかしいことなので、
靴を買うので一万円ください、というように、
理由を言って、お金をもらって、支度を整えた。



思えばわたしは、
貧乏しか、経験がないまま、大人になってしまったのだ。

原因は、わたしにはないのに、
いつもかも、苦しい生活だったのだ。

家庭は、あくまでも、父と母が勝手に築いたものであって、
わたしには無関係。
わたしの居場所など、どこにもないと、思って生きて来た。



親は、子より、偉いのだろうか?

わたしは、親に抑圧され制御され、脅されて育った。

それに慣れていたから、気が付くのが遅かった。

息子に出会えて、息子の清らかな気持ちに触れるたび、
ああ、この子の魂の格は、
わたしより、はるかに上を行っている、と感じた。

息子から、愛されること、必要とされること、
大事にしてもらうことを、学んだ。
とても優しくしてくれた。
ママの髪、綺麗、って言って、櫛で髪をとかしてくれた。
幸せだった。

親なんて、全然、偉くなんかない。
勝手に結婚して、勝手に子供を産んだだけだ。
そのツケが、子供に来てしまうって、どういうことだよ。

自分の子として生まれたが、
自分とは別の人間であり、持ち物ではない。

なぜあそこまで、抑圧されたのか、
わたしは、一生苦しい。
自分を許してくれる人と一緒に生きたい。



そのままでいいよ、生きていればいいよって、
言われたかった。

たかが親で、何が偉いのよ。
何様のつもりなんだ。

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